舞鶴色街トリプレット『朝代遊郭』編

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福知山と並び、丹後エリアの中核都市という立ち位置の京都府舞鶴市。
明治時代に軍港が置かれ、戦後は引揚港として多くの復員兵を温かく迎え入れた“男のまち”には、かつて遊郭が三ヶ所もあった。

まずはその中のひとつ、『朝代遊郭』から紹介しよう。

西舞鶴駅から西へ徒歩約10分。 現在もそのまま朝代の地名が残っている。
舞鶴は東と西でまったく性格が異なっていて、東は軍都、西は城下町として発展したという、まるで水と油のごとく相反した歴史を有している。

なるほど、城下町であれば茶屋町のような形で遊里が成立したんだな、と思いたいところだけど、明治時代、軍港が置かれたのを契機としてできたそうである。

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まちなみを見る

朝代という地区はそんなに広くはない。ただ、たとえ下準備もなしに訪問したとしても、現地に着くとまっ先に目に飛び込んでくる建物がある。それがこちらの霞月旅館。

こんなところに純和風な旅館があれば十中八九転業の類・・疑惑でしょうか?いいえ、事実です。

霞月旅館を起点に散策を開始する。まずは同じ通りから見て行くと、くり抜き窓と見越しの松というのっけからハイスペックな建物が登場した。

こちらも関連物件と見てまず間違いないだろう。

このあたりで、並行する一本山側の道へと向かう。
格子、ふたつの入口、バーにでも転業したような意匠…
今ここに、朝代遊郭クロニクルを見た気がする。

突き当たりには、創建飛鳥時代頃という朝代神社。

山側の路地は石畳が敷かれ、なかなか風情が感じられる。これはちょっとは期待が持てそうだ。

おおおぉぉ

真打ち登場!!!玄関周りの意匠が素晴らしい。特に瓢箪が素晴らしい。
久しぶりにこんな惚れ惚れするような遺構を見た気がする。

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稲荷神社もあったよ

その先に。名を千野宮神社という稲荷神社があった。
「火除けの稲荷」「商売繁盛の稲荷」、また「雨乞いの神」などと呼ばれた霊験あらたかなお稲荷さんだったそうである。

稲荷神社と言えば遊郭や花街につきもので、寄進の記録が玉垣に残っていることが多い。

そして案内板には

又、大正七年寄進の鳥居から大正時代の好景気をうつした朝代界隈の賑わいをうかがわせています。

と書いてある。

流石に100年前なんでだいぶ字も読みづらくなってるけど、探したらあったあった。

「朝代芸妓一同」と「朝代貸座敷組合」の文字。これを見る限り、朝代は娼妓だけでなく芸妓もいた遊郭だったんでしょう。

そしてもういっちょ。

九分九厘、霞月旅館の前身と思われる「霞月楼」の文字が。手元に資料がないので何ともわからないけど、たぶん他のやつらもほとんどが妓楼や料亭の名前なんじゃなかろうか。

この通り。他にも「んん?」と思えるような建物が結構残っていた。

ここ朝代遊郭は、おなじみ『全国遊廓案内』『全国女性街ガイド』に記載がないので詳細がよくわからない。規模も不明だし、いつまで存続してたのか、戦後は赤線になったのか、等々すべてが謎である。

ただ、赤線時代のものと思えるようなのもあるにはあった。屋号の跡もはっきり残ってるし、特徴的な斜め玄関は一目瞭然である。

朝代という町は、元々は朝代神社の門前町として発展したそうである。西側に愛宕山という山があることが大いに関係ありそうだが、このあたり、寺社仏閣が比較的多い。

なぜそんなところが貸座敷の指定地になったのかまったく理解できないけど、ここに遊郭ができ、あまたの物語、人間模様を紡いできたことだけは確かである。

目の前の風景からはよもや想像もつかないけど、歴史は確かにこの地に存在している。

そんな哲学者モードで歩いていたら、視線の端にタイルを捉えた。やはりここは紛うことなき色街なのだ。

大事に使われてきた遺構も、主を失えばただの中古物件になってしまう。
新しいオーナーが見つかることを願いながら、そろそろ朝代散策を締めることにしよう。

どこまでが範囲だったかわからないが、外れのほうに朽ちかけ始めたスナックが一軒あった。
どうにも判然としないが、夜に来たら普通に営業してそうな雰囲気も少々漂っている。

高野川。日本海方面を眺める。

実はこの日は舞鶴で投宿した。そのときの顛末について少々書きたいことがあるので、その話はまた次回にでも…。

[訪問日:2017年5月3日]

※年内はこれがラスト更新になります。今年も1年間ありがとうございました。
2018年も当ブログをどうぞよろしくお願いします(*_ _)


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