福井県武生(たけふ)市。
2005年、平成の大合併で消えたその街は、巷では「越前市」と呼ばれている。
その地には、かつて『尾花新地』と呼ばれた遊郭が存在した。
尾花。そして武生。
自らのアイデンティティを、その名とともに葬ってからすでに12年、一回りもの歳月が流れたその場所は、現在では越前市桂町と名乗っている。
だが、名前は消えどもその地に埋め込まれたDNAは、眼前の風景として旅人に歴史を物語っていた。
不自然に広い路地とそれを二分する水路。
間違いない。ここが尾花新地跡だ。
ラスボス健在
尾花新地と言えば、『赤線跡を歩く(完結編)』で紹介されていることもあって、この地を訪ねた先人たちの数は計り知れない。
そして、その誰もが礼賛したレジェンド級の建物が残されていることも、よく知られた周知の事実。
そう、この建物である。
まだあった。
ここへやって来た理由とも言える遺構。残ってくれていたことに安堵し、同時に感謝の念を抱いた。
これほどまでに強烈な外観を持つ遺構は、これまでアホみたいに全国の遊里を歩いてきた筆者の記憶をひっくり返してもほとんど見つけ出すことができなかった。
それほど異彩を放っている。
日本に飽きて海外ばかり旅する者が、「まだ日本にこんないいところがあったのか…」という感覚に似ているだろうか。
おそらく、この洋風建築は赤線時代の名残であろう。
二階の窓から見えたカーテンは、まるで引き裂かれたかのようにボロボロになっていた。
いつまでこの姿をとどめてくれるか。
尾花新地の歴史を紐解く
昭和5年の『全国遊廓案内』には、以下のように書かれている。
明治32~3年頃に同業者が組合を組織して現在の許可地に移転したものであるが、当時28軒あった同業者が、現在では23軒に減っている。娼妓は95人居る。
が県下の者よりも高知県、大阪府等の女が大半を占めている。
かつては越前国府が置かれ、前田利家の居城もあった関係から宿場女郎としての存在も古来からあったのだろう、という記述も見られる。
続いて、『全国女性街ガイド』(昭和30年)から。
赤線24軒に105名ほど。ここまでくると北陸女の感じはうすれ、おんなの味もお粗末になる。敦賀の赤線から流れついた玄人や、畳の縁の女工さんから転じてきたのやで、一貫した味はないかわり、よいのに当ると就労四日目なんてのもいる。
戦前から戦後を通じて、軒数、人数にはほぼ変化がなかったようだ。
『玉突』の文字を見て、多治見の西ヶ原遊郭を思い出した。
当時の台ってどんなんだったんだろうか。ちょっと覗いてみたい衝動に駆られた。
蛇足だが、筆者は撞球も嗜む人間で、マイキューなるものも一応持っている。もうずいぶんやってないが…。
現在の尾花新地は妓楼やカフェー建築の類はほぼ皆無で、赤線時代を思わせるスナックの存在が色街を偲ぶよすがとなっていた。
その構造を見れば、目の前の建物が担った役割をある程度解することはできる。
だが、個人的にはやはり特徴的な意匠がないと見ごたえがないし、琴線に触れることもない。
そうそうこういうの。
これはなかなか。
目抜き通りに残されていた、妓楼っぽさを残す唯一無二の建物。
うなぎの寝床のように奥行きを有するこの建物も、もしや、と思わせるに十分な貫禄。
こちらの美容院もなかなか面白い意匠をしている。
後ろを見ると、ずいぶん古い建物のように見える。
メイン通りは、ところどころ空き地も見られ歯抜けのようになっていた。
往時を知る建物も、ずいぶんとその数を減らしてしまったのだろう。
抜かりなく、裏通りも歩いておく。
南北へ貫く目抜き通りの東西に、並行する細い路地がある。
ちなみに、先ほどのラスボスには東側の通りに行けば会える。
ところどころ、雰囲気のある建物が残っていた。
中央の水路と松の木の存在で、独特の雰囲気と不思議な居心地の良さが同居する、どこか懐かしささえ感じられるような場所であった。
“武生”市にあった“尾花”新地。
その名前は二度と蘇ることはない。
ここを知る人、建物がいなくなり、遠いいつか、その痕跡さえ完全に消えてしまう日がやがてはやって来るだろう。
そのとき、この電柱の「尾花支」の文字はまだ残っているだろうか。
その頃には、もう筆者もこの世にはいない。
答えは、神のみぞ知る、そんなところだろう。
[訪問日:2017年5月4日]
コメント