奇勝、東尋坊を擁する、福井県三国町。
2006年にその名を返上し、坂井市三国町となったその港町には、古くから栄えた遊女町、「出村遊郭」があった。
三国港は、九頭竜川が日本海に注ぐ河口に位置する。
福井市内で朝を迎えたこの日は旅の三日目。あわら温泉で朝風呂を楽しみ、三国には昼前に到着した。
散策を開始し、はじめに目についたのがこちらの永正寺。
遊女から歌人にのし上がり、歴史に名を残した哥川(かせん)は、永正寺の第17世住職・永言から俳諧を学んだ。
そのあたりのくだりが案内板に書かれていた。
滝谷出村遊郭
ここの遊里は、俗に滝谷出村遊郭と呼ばれる。
滝谷(たきだに)というのは地名で、これは今も残っている。「出村」というのはいわゆる“分村”のことで、今風に言うなら飛び地のこと。
滝谷が、藩の飛び地のような場所だったのだろうか。
三国港の歴史は古く、江戸時代には北前船の寄港地として繁栄を極めた。
ここの遊郭はいわゆる“廓”ではなく、出村、上町、松ヶ下といった地域に散在しており、当時は茶屋街に近い場所だったそうである。
多くの豪商や船主が足を運んだという三国の遊里では、遊女は「小女郎」と呼ばれ、格式や教養、芸能を身に着けていたという。島原の「太夫」のような存在だったのだろう。
江戸時代、北前船と言えば莫大な利益を叩き出すビジネス(ハイリスクハイリターンだけど)で、廻船問屋などでは絵に描いたような億万長者を多数輩出した。
ここ三国も相当な賑わいを見せ、寛政年間のデータによれば22軒100人、実に人口の1割が遊女だったそうである。いかに遊女町が繁栄したかがよくわかる数字である。
しかし北前船は明治に入ると鉄道の普及で徐々に衰退していく。殷賑を極めた出村遊郭もそのあおりを受け、昭和初期には貸座敷17軒、娼妓約60人(『全国遊廓案内』より)。
一応その後も存続し、昭和33(1958)年の売春防止法まで存在していたと言うが、いくら遊郭と言っても船運がなくなった田舎の港町が流行るわけがなく、かなりほそぼそと続いていたのだろうと思う。
と、いうのが現地を歩いたことでよくわかった。
成立が古かったせいか、いかにもな妓楼建築はほぼ皆無、派手派手なカフェー建築の類も見受けられなかった。
ただただのんびりとした時間が流れる、田舎の港町。そういう印象が残る町だった。
唯一、赤線時代を偲ばせる意匠をしていたのがこちら。
と言ってもリノベ物件だと思うけど。
残念ながら既に廃業していたようだった。
まぁ、ムリもないと思う。
元料亭「たかだや」の前に、三好達治なる人物のことが書かれた石碑があった。
(・ω・`)ダレデスカ?
手前から二軒目、観光客と思しきおっちゃんが前に立ってるのがそのたかだや。
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コメント
素敵な食堂ですね、、、
ぜひ、入りたい。
蕎麦屋も味のある建物だったので、私だったらものすごく迷うと思います。。