五番町遊廓、改め西陣新地。
『五番町夕霧楼』の舞台になった廓の現在をもう少し見ていくことにしよう。
そう言えば戦後は赤線だったんだっけ、というのを思い出すと、その時代のものと思われる建物もいくらか見受けられた。
二階がどう見てもちょんの間仕様。おそらく1帖程度の部屋が均等に並んでいるのだろう。
江畑
妓楼を改装して営業している焼肉店の江畑。
存在も有名だけど、味も確からしい。いつか入ってみたい。
個人的には、右隣の建物のほうが気になった。全身から妖艶なオーラがほとばしっている。
それ以前に、カーテンの色がまさかのピンク・・
一瞬、あれここって現役の街だっけと思ってしまった。
前頁で、見ごたえのある遺構は2軒ある、と言ったもうひとつがこちら。
妓楼というか花街の遺構に見える。
気のせいかな。どことなく建物が歪んでるような。
周囲を見渡してみても、こんなに古い木造家屋は他にはなく明らかに浮いていた。いつまでもこの姿をとどめてほしいものである。
赤線時代を彷彿とさせるL字型の細い路地に、廃業したスナックと小料理屋があった。こんな路地でも往時は嫖客で賑わっていたのだろう。
その赤線時代はどんな様子だったのだろうか。昭和30年の『全国女性街ガイド』には以下の描写がある。
通り名が五番町。宮川町、祇乙にはネオンがないが、ここと七条はネオンも妖しくまたたき洋式の大店も多く美人座、大和家、照美などが大きい。女の子は九十三軒の店に二百七十二名。
七条とは五条楽園のことである。純粋な花街ではなかった西陣新地、七条新地だけにこの描写もすんなりと腑に落ちる。
今はもうないが、かつて五番町には「石梅楼」という惚れ惚れするような洋風の妓楼があった。対して五条楽園のほうは、今もまだいくつか洋風の遺構が残っているのは以前書いた通りである。
だいたい歩いたので、最後に仁和寺街道沿いを見て締めることにする。
この通りにも、近年までスナックや呑み屋がもっとあったそうであるが今ではもう見る影もなかった。
この後嵐山に用があったので、北野白梅町駅まで30分ほどかけて歩いて行った。通りすがりにたまたま見かけたこの艶っぽい建物に料理屋の鑑札があった。(中央)
ところで、『五番町夕霧楼』にはちょっとしたエピソードがあって、それは夕霧楼に身を落とした片桐夕子の名にある。
言わずと知れた井筒生八ツ橋の夕子は、実は水上勉の許可を取って『五番町夕霧楼』の夕子から命名されたのである。
実は娼妓がモデルだったなんて、一体どれほどの人が知っているだろうか。
もういっそ、アンサーソング的なノリで主人公の「正順」版も作ったらいいのにと思う。セット販売で売れそうな気がしません?
最後脱線しちゃったけど五番町編はここまで。
お後がよろしいようで。
[訪問日:2016年12月11日]
コメント
母親が水上作品が好きで、よく読んでいました。
私自身はどこか影があるので、水上作品は読んでいません。
昔の作家というと、酒と女は付き物ですね。
あの玉の井だって、永井荷風をはじめ、人知れず文士が通っていたそうですからね。明治~昭和初期の作家と色街は切っても切れない関係だと思います。