南国、である。
西郷どん、こと西郷隆盛を輩出した薩摩国。雄大な桜島に抱かれ、浴びるように芋焼酎をあおる豪快、豪傑なイメージ。
そんな鹿児島にやって来たのは人生で二度目。およそ6年ぶりのことだった。
そこはまごうことなき色街だった
鹿児島市街地から少し南へ外れたあたり、JR鹿児島駅と新幹線開業で玄関口となった鹿児島中央駅(旧西鹿児島駅)のちょうど間あたりに「甲突町(こうつきちょう)」という場所がある。
単刀直入に言えば、遊郭から赤線になり、赤線から風俗街になった色街のサラブレッド。やんごとなき色街。そういうところである。
遊郭は江戸時代からあり、「沖之村」という名であったそうだ。明治32年には鹿児島駅付近にあった別の遊郭が、駅建設のあおりでこの地に移転。
戦後、赤線時代の有名な、 -『赤線跡を歩く2』で「だまし絵のようなタイル使い」と形容された – 遺構はまだ元気そうだった。
幾何学模様のモザイクタイルは見事としか言いようがない。
ただ、凝視すると目が疲れそう…。
すぐ横には昭和感満載のイカしたホテルが立っている。
※その後取り壊され、現在はコインパーキングになっています
そのホテルの裏手、かつて息を呑むほど美しいカフエー建築が建っていたその場所は、吐き気がするほどセンセーショナルな更地になっていた。
あと数年。来るのが早ければ・・
妖しげな旅館は健在だった
そもそも有名な話なので今さら説明することもないだろうが、甲突町にはもっぱら今も現役と噂の旅館がある。
『消えた赤線放浪記』には、“三軒回ったが出てきたのはいずれも五十代から六十代・・”という描写がある。
確かに三軒あったようであるが、そのうち一軒はすでに屋号を下ろしており二軒が存在していた。
近年のネット上の体験記には木村氏が訪れた当時と似通った描写のものが散見されたので、なるほどそうかそうかと思うことにした。
夜に見に行ってみる気は起きなかったので、この日は天文館の郷土料理屋で文字通り芋焼酎を浴びるように呑んで鹿児島の夜を満喫した。
いつものように付近をくまなく歩いていると、鹿児島でしかお目にかかれないようなユニークなものに出会った。
なんと、火山灰の指定ごみ袋と指定置き場。
その近くだっただろうか、なんとも魅惑的な路地があったのでつい吸い寄せられた。
もしかしたら、赤線時代は青線的な機能を持つ場所だったのかもしれない。容易にそんな想像ができてしまうのは立地のなせるわざだろう。
思案橋もあるでごわす
みんな大好き思案橋。そのままの名前でバッチリ残っていた。
かつてはここが遊郭の入口、そして川が異界との境界線の役割を果たしていたのだろう。
電柱にも。
冒頭で説明した通り、甲突町は現役の色街である。
遊ぶ予算、入るお店、奥さんにバレない言い訳・・
遊び人諸氏は、是非この橋の上で色々なことを思案しながら“登楼”してみてはいかがだろう。
「廓情緒」とまでは言えないまでも、プチ遊客気分を味わえる。そんな鹿児島市民がちょっと羨ましい。
ちなみに、県下ではここだけが営業許可区域と条例で決まっているとのこと。
江戸時代から連綿と続く色街は、色街で在り続ける天命をきっと遺伝子レベルで解っているのだろう。
あ、でも件のカフエー建築を見たい方は、いつまであるかわからないのでお早めに…。
[訪問日:2018年1月3日]
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