まるで墓標のように元ちょんの間が立ち並ぶ死んだ色街を目の当たりにした黄金町を背に、重たい足どりで川向こうの曙町へと向かった。
ハマの歓楽街
曙町は戦後発展した新興のカフェー街で、3つの区域に分かれていたそうだ。
昭和30年発行の『全国女性街ガイド』によれば、しめて119軒女性371名と言うからかなりの規模だったことが窺える。
しかし場所が場所だけに、往時の建物はそのほとんどが新陳代謝という名の残酷めいたシステムによって無に帰してしまっている。
国道16号線にしがみつくように並走する一本北側の細い路地。巷で『親不孝通り』と呼ばれるその場所に、いくばくかの生き残りたちがほそぼそと余生を送る姿を拝むことができる。たとえば、これなどがそうである。
そのセンセーショナルな固有名詞は、この街の妖気に骨の髄まで侵された放蕩者が、親の死に目に会えなかったという至極ありえそうな物語に由来している。ただし、事実かどうかはよくわからない。
風営法で、200m離れていないと営業できないという規制の対象になっている病院が撤退したのが1993年。
その後、曙町では堰を切ったように開店ラッシュが続き、現在は全国有数の歓楽街となっている。これは好き者であればよくご存知のことと思う。
街の風景と醸す空気に身を委ねながらそぞろ歩きを楽しんでいたまさにそのときであった。
突如目の前に、時空を超えてたどり着いたとでも言うべきであろう、現代にはあまりに不調和なカフェー建築が現れたのである。
オール直球の真っ向勝負に三球三振を喫したような黄金町の完敗が、気のせいじゃないあの徒労が、報われた気がした瞬間であった。
やはりタイル貼りの物件を拝まないことには、どうにも色街に来たという実感が湧かないのである。我ながらそろそろ末期だと思う。
目立たない所にまで趣向を凝らす。そしてそれは注意深く観察すれば必ず見つけることができる。
これこそ色街歩きの醍醐味のひとつであると思うのだ。
(2ページ目へ続く)
コメント
こんばんは、曙町かぁ、わたしは黄金町で夜勤のバイトをしていたのですが、遊んだことはまったくありませんでした。怖いし。
曙町には80年代前半に面白いマスターのバーができて、学生風情で時々、バーボンを飲みに行っていました。学生には少し高い値段でしたが、マスターを慕うお客が多くて、結構繁盛していました。当時団塊さんがまだ30歳台ちょぼちょぼでしょう。16号沿い。あのあたりでは、そこ以外で飲んだことはないです。でも伊勢佐木町からそのお店への生き帰りは結構、酔っていても緊張して歩いていました。やっているか、いないかわからないお店ばかり。暗い。
で、横浜を離れて久しぶりに行くと、ご指摘の通り93年くらいでしょうかね。お店までの小道が「●●女学園」みたいなネオンでギラギラに変わっていて驚きました。マスターに聞くと「いいんですよ、賑やかになって。働いている女の子もお茶を飲みにきてくれるし」との答え。また、その数年後に行くと「客の男どもがストーカーになって女の子の仕事帰りを待っているので、風俗店が女の子を乗り合いにしてクルマでアパートまで直接、帰すようになったので、来なくなったんです」と少し、しょんぼり。オトコはしょーがねーなーと思いました。
そのお店は10年前くらいかな、なくなっていました。調べると30年近くはやったみたいですね。もっと行っておけばよかった。「や」の人がミカジメ料を要求してくるのを、きっちり断っていたそうです。あのあたりでそのお店だけが繁盛している感じでしたかららね。しっかりした人でした。ただ、モテるので、よく離婚していました(笑
曙町ってもともとはそういうところなんですね。曙町や黄金町の真髄は語れずに申し訳ありません。
訂正・生き→行き 感じでしたかららね→感じでしたからね
ということでお願いします
いえいえ、当時の貴重な思い出話、非常に興味深く拝見させていただきました!
私は今しか知りませんが、曙町も昔は今とはずいぶん雰囲気が違ってたんですね。ネオン街になって風情が失われてしまったのは確かだと思います。
色々な出来事の積み重なりと色々な人たちの関わり合いがあって、そこには無数のエピソードがあって。つくづくまちの歴史って面白いなぁと感じています。
自分が知らない時代の話を聞くのが好きなので、またちょくちょく遊びに来てもらえたら嬉しいです。
親不孝通り良い響きですね。若い頃に遊んだザキ裏通り、横浜橋の中にあった邦画館
三本立てで高倉健・藤純子の映画を確か150円オールナイトで見たものです。
横浜橋入口に一番と云うラーメン屋16号線を曙町に行くとトルコ風呂が何件もあり末吉町寿町浜っ子通り福富町遊ぶ事欠かない街でした。(真金町はグレーの街でした。)
福富町のキャバレーはボーイさんを呼ぶのにマッチを擦って高く掲げたもの
当時は100円ライターも無くお金のある人はダンヒル・デュポンを持っていたのを思い出せます。年齢を取りました・・・昭和の風情をこの特集で懐かしく思い耽っています。
今や、数少ない建物でしか当時を感じることのできない時代。思い馳せるにしてもあまりに変わりすぎてしまいそれも困難になってしまっています。
生きたこともない時代に憧れを抱く理由が自分でもよくわかりませんが、昭和30~40年代というのは私にとってそういう時代です。
実体験に基づく描写は、私にとっては宝物のようです。
特に横浜の、あの界隈であるからこそよりそう感じるのかもしれませんね。
私は昭和40年の生まれでミュージシャンの両親のもと、赤線地帯の名残ある横浜の野毛、日の出町、黄金町界隈で育ちました。父はピアニストで、場末のキャバレーやダンスホールなどの演奏の仕事もしていました。中区の公立校に通っていたのですが、大岡川沿いに住む友達も多く、自宅が素泊まり旅館だったりラブホ経営、暴力団、中華系や在日とか様々で、今でいうダイバーシティが既に実生活に浸透していました。京急ガード下で小料理屋のような店をやっているお友達のお家で遊んでいたとき、5時ぐらいになったら軒下の電球がピンク色に代わって、男性が店先に並べた椅子に女の人が数人出てきて座っていたのを何度か見ました。電球がピンクって可愛いなと思ったのをすごく覚えています。仰る通りタイル使いは随所に見られました、通っていた町医者の診療所もなぜか中も外もタイル張り。お手洗いも玄関先も洗い出しタイル張り。そんな環境でしたが横浜の夜の世界で生きる人たちは人情厚く、違いとか寂しさや痛みもお互いに受け容れていて、ぼろは着ても心は錦の心持で必死に生きていた時代だったなって思います。昭和のあの時代の情景には白熱電球がぼんやり照らし出すすりガラスや、薄暗い裏通りとか闇が随所にあったけど孤独感ってなくて、逆に今はどこも煌々と明るいですが人との繋がりが希薄で横浜に帰る度に、当時の名残を見て安堵したりします。これからもブログ楽しみにしています。ありがとうございました。
こんばんは。素敵な身の上話をありがとうございます。当時の情景が胸に浮かんでじーんと来ました。
私は生きたことはないものの、戦後~昭和40年代頃の空気感や人情みたいなものがすごく好きでそれがこんな趣味につながっています。
仰るとおり、皆が助け合い必死に生きていた時代。まさに書いて頂いた描写そのものです。
そして、現代は人とのつながりが希薄化していることも実感としてかなり強く持っています。昭和という時代が残したものは思っていた以上に大きなもので、今の世には欠かせない何かなのかな、と思ったりします。
こちらこそありがとうございました。
なぜか、ホッとする伊勢佐木町。小さい頃から、買い物、不二家のレストラン、野毛山動物園、怪しいけど今も大好きな地域です。