まるで町並み保存地区と見紛うほどであった。
京都・橋本に残された色街のことである。
ここまで往時の名残・雰囲気を鮮烈にとどめる遊里も珍しいものだな、と胸熱な思いで歩いてきたので、しばし旅日記という名の戯言にお付き合い頂きたいと思う次第である。
駅徒歩0分の異界
京阪本線の橋本駅。大阪との境界に位置する、京都最果てのローカル駅を出るとそこはもう結界の中である。
大正時代に建てられた洋食屋「やをりき」。1階が食堂、2階がカフェーとして営業していたという。
戦後の“カフェー”とは明らかに異なるのでいわゆる女給さんがいたわけではないだろうが、この店は今からまさに登楼しようとしていた遊客の胃袋を長い間満たしてきたに違いない。
中を見てみたかったが営業していなかったので叶わず。
駅徒歩0分でこの寂れ具合はどうであろう。この建物もかつては食堂であったようではあるが。
橋本遊郭の成り立ちに関する情報はさほど多くない。
しかし、江戸時代にはすでに色街として男衆の欲望を受け止めていた。歴史は古い。
やをりきの脇から西へ伸びる駅前通り。
いきなり朽ちゆく遊里の残照とでも言うべき遺構の歓待を受ける。付近は不気味なほどに静まり返っている。
橋本の地は、京と大阪を結ぶ京街道の道中に位置する。そばに淀川が流れ、対岸の山崎への渡し場があったため、交通の要衝として大いに賑わったのである。
突き当たり、T字路の角にいきなりラスボス級の元妓楼が現れた。これはすごい。
遊里を歩いていて、久しぶりに血がわき立つような高揚感を覚えた。
遊郭も江戸時代に成立するが、実は一度歴史が途切れている。慶応4年(1868年)鳥羽・伏見の戦いで橋本の街は川向こうから新政府軍の砲撃を見舞い、遊郭もそのとき焼け落ちてしまったそうだ。
宿場町として機能していた橋本はその後も賑わいを見せるが、明治10年、対岸に鉄道が開通したことで旅客も激減、街は衰退し一気に苦境に立たされることになる。
窮余の策として遊郭の再興が計画され、明治20年(1887年)、京都府の認可を受け営業を再開したという。一度その歴史を閉じたにも関わらず、ふたたび同じ地で蘇るというのは遊里としてはかなり稀有な事例と言える。
T字路の先が遊郭時代のメインストリート。ここから先がすごいのである。
豪奢な妓楼建築のオンパレードが始まるのだ。目を皿のようにしてご覧いただきたい。
遊郭、カフェー街、赤線、青線。
今まで色々な場所を歩いてきたが、カフェー建築が数多く残る場所はあっても、妓楼建築がこれほどまでに残されている場所は記憶の限りではなかったように思う。それはもちろん、質・量ともに、においての話である。
流れた歳月の長さを思えばそれは真っ当な話なのではあるが、しかし時の流れは全国どこであろうと平等なのだ。
しかもその多くが大廈高楼なのである。そして、特筆すべきはそのどれもが現在住宅として大事に使用されている、という点に他ならない。
明治43年に京阪電車が開通したことで追い風を受けた橋本遊郭は順調に発展を続け、最盛期を迎える昭和12年には86軒、675名と公許であった中書島をしのぐ規模にまで成長した。
(2ページ目へ続く)
コメント