一昨年の秋、一体何年ぶりか思い出せないぐらい久しぶりに宮城&福島へ2泊3日の旅に出かけた。
関東にいた頃と違い、もはや空路以外の選択は不可能となってしまった東北地方。
交通費がかかる分、もう少し旅程を延ばしたかったがこの辺が社会人の辛いところである。
素晴らしい秋晴れのもと、神戸から1時間20分の空の旅は終始穏やかだった。
仙台空港に到着後、すぐさまレンタカーを借りて車で30分の村田町へと向かった。
宮城県唯一の重伝建、村田蔵の町並み
手始めに向かったのが『みちのく宮城の小京都』などと呼ばれたりもする、村田町の通称「蔵の町並み」。
町内に鉄道はないが、東北道の村田ICから5分ほどで行ける非常にアクセスのよい場所にある。
平成26(2014)年、種別「商家町」で重要伝統的建造物群保存地区に選定された村田。
東西約180m、南北約470mの縦に細長いエリアに、重厚な土蔵造りの建物がよく残っている。
県内では唯一の重伝建である。
村田町は古くは村田城の城下町で、当時町人地が置かれていたのが現在の蔵の町並みにあたる。
江戸から仙台へ至る奥州街道と、仙台から山形へ至る街道とを結ぶ線上に位置することから宿場町として、また、商業の中心地とした栄えた商都でもあった。
村田商人はいかにして儲けたか。
当時、仙台藩内で栽培が盛んだった紅花や藍を買い集め、江戸への取引きを行ったのがひとつ。
さらにもうひとつ、山形へと繋がる地の利を活かし、酒田からの西廻り航路(北前船)を経て京や大坂と言った上方へも販路を拡げていったことで莫大な利益を得ることを可能としたのである。
一体どれほど儲けていたかと言うと、江戸後期頃の記録によると村田の紅花商人は11軒。
総取引高は現代に換算して約30億円にも及んでいたそうだ。
街道沿いでさらに宿場でもあったことで、商品流通が容易で、活発に行われていたのだろう。
それにしても30億とは凄い…。
その後の歴史についても言及しておくと、明治に入って鉄道の時代を迎えることになるが、東北本線や国道4号線(現奥州街道)が村田町のはるか南のほうに敷設されたことで役割を失い、近代化から取り残されてしまう。
ただ、逆にそのことによって古い商家や町並みが失われることなく現在まで残ったことは幸運なことだったのだろうと思う。
建物を見る
見たまえ、この重厚な土蔵造りを…!
なんて口走りたくなるほど重厚感あり余る、「店蔵」と呼ばれる蔵造りの商家が村田最大の見どころとなる。
年代的にはほとんどが明治時代となるが、20軒近くの店蔵が残っている。
最も新しいものでも大正中期よりは前となるようで、100年は経過していることになろうかと思う。
最たる特徴が店蔵と門が一対をなして並んでいることで、つまるところこういうことである。
これはどういうことかと言うと、居住棟となる主屋を店蔵の背後に配置し、南側に行き来する通路(アエコまたはアイコと呼ばれる)を設けている。
その通路の入口が店蔵の横にある門というわけだ。
村田の町並みは整然とした短冊状になっているが、どの建物も奥(東西)に長い。
主屋の奥に土蔵や附属屋を建て、敷地の最奥部は裏通りと接している、という寸法になっている。
通りから表面を眺めただけでは平入りの蔵造りが並んでるだけに思えるが、実際は門をくぐると奥へ奥へと続いていたのである。
これこそが村田の最たる特徴で、独特で印象的な景観を創り出しているというわけだ。
店蔵を眺めてみると、ほとんどが平入り。
漆喰は白と黒と両方見られる。
そして海鼠壁が標準装備。
通りに面していることもあり、徹底した防火構造となっている。
旧街道は現在は県道となっているが、そこまで車通りが多いわけではなさそうだった。
道幅がそこそこあるので、こういう構図はまったく映えない(笑)
土蔵がやはり目を引くが、昭和っぽい風景も点在している。
こんなんとか。
裏通りも歩いてみた。
これは「村田商人やましょう記念館(旧大沼家住宅)」の裏側になるが、確かに通りに面して蔵と門があった。
なるほどこういうことか。
裏通りも歩くとそれなりに距離が伸びるものの、そうは言っても南北約500mなので蔵の町並みは非常にコンパクトで歩きやすかった。
毎度これぐらいだと助かるんだけどな…笑
珍しい妻入りの店蔵。
隣のカフェの門に入ってみる。
なるほどこれが「アエコ」か。
確かに奥に長い。
門からの眺めが実に壮観。
始まったばかりの東北旅。
この後、遠刈田温泉で身体を温め、白石へと向かった。
今しばらくの間、ごゆるりとお付き合い頂ければ幸いである。
[訪問日:2021年10月29日]
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