川越の見所と言えば、前回紹介した「小江戸」と呼ばれる蔵の町並みに他ならない。
それらが華々しくスポットライトを浴びる傍らで、歴史の狭間に追いやられひっそりと時を刻むかつての色街がすぐ近くにある。
喜多院。通称「川越大師」。
本川越駅からだと東へ10分ほどの閑静な一角にその名刹はある。
そして、かつての遊郭はこの喜多院の北西側にあった。
名刹喜多院のそばにある廓町
そんなに広くない一帯に、往時の面影を残す建物が数軒。
少し歩くと探していた場所はすぐに見つかった。
通称「喜多院裏」と呼ばれ、昭和30年発行の『全国女性街ガイド』では以下のように紹介されている。
赤線の街で、駅から三十分ほどの著名な名刹喜多院のそばにある廓町に二十軒、花魁イモのような顔の花魁が八十一名。風物はよきだが、女はダメ。
外観はアンチエイジングによって封じ込められているものの、玄関まわりが往時のままという転業旅館、「御宿富もと」さん。
もう商いは辞められてるような雰囲気でした。
この艶っぽさは異常。
いつまでもその姿をとどめていてほしいものです。
そしてもう一軒。
『赤線跡を歩く』にも載っている、界隈で最も立派な遺構と思われるのがこちらの「旅館市むら」さん。
いやはやこれは素晴らしい。
少し引くとご覧の通り。
完全に住宅街に埋没してしまっている。しかしそのためにひときわ異彩を放っているのも事実。
ところで埼玉県は、「売春はけしからん」という立場で昭和初期には廃娼県となった土地柄。
つまり貸座敷(遊郭)は一軒もない・・はずなんです。
ところが、現に川越にあったわけです。不思議ですね。
この辺りの話は次回の記事で触れることにしましょう。
喜多院西側の路地に面してもう一軒。
見越しの松がよく似合うこちらの建物は、「てんぬま」なる天ぷら屋さんとなって余生を送っている。
こうして寄せてみるとまったくもって天ぷら屋などには見えないよな。
完全に妓楼でしかない。
細部まで観察すると、随所に職人の粋を結集した意匠を見て取ることができる。
重厚な門の上部に、「都市景観重要建築物」と書かれた金属プレートが穿たれていた。
文化財保存に通暁している川越ならではの措置でしょう。
普通の都市なら遊郭跡なんて完全に放置ですよ。
ここ数年間で数軒の遺構が消失したという情報もあれど、意外と残ってるもんだなぁというのが歩いてみた率直なところ。
やはりカフェー建築などに比べ、妓楼は存在感が全然違う。
玄関灯には『白舟』という往時の屋号がそのまま残っていた。
最後にもう一軒。すぐ近くに、同じく飲食店となっていた遺構があった。
ぱっと見小ぶりだけど、奥行きがあるので結構大きい。
大正13年(1924年)築というから、もうすぐ100年になるこの建物は「和洋御食事処 栄」さん。
牛タンシチューが名物だとか。寄ったらよかったな。
飲食店になったものが二軒あったり、市から重要建築物認定されたりと、川越の遊里跡には他所にはない特徴が見られその前途は明るいものでした。
蔵造りの町並み、喜多院と見たら是非最後に西小仙波町を歩いてみてください。
[訪問日:2015年4月29日]
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