やっと帰ってきたという感じがする。
昨年、秋以降はアホみたいに県外ばかり出かけてたので都内を歩くのも実に5ヶ月ぶり。記事にするのも3ヶ月ぶり。
なんかもう消化試合な感も否めないけど、まだ行ってないところがちょこちょこ残ってたのでまぁ一応行くだけ行っとこうか、と。
久しぶりに『赤線跡を歩く』を眺めてみたら、都内ではまだ品川、調布、立川に行ったことがなかった。調布は行っても何もないらしいので、じゃあ品川と立川までは行ってみようと。
千住のところで書いたけど、品川遊郭は江戸四宿のひとつ、品川宿にあった飯盛旅籠が起源。
歴史は古く、かつては吉原に比肩するほどの隆盛ぶりだったらしい。
土蔵相模
京急の北品川駅から歩くこと2分。第一京浜の東側にあるこの細い道が旧東海道。品川宿、そして品川遊郭があった場所である。
結論から言えば名残は皆無であるが、右側にあるファミリーマートに一応それらしきものが残っている。
「土蔵相模跡」と書かれた石碑が立っている。土蔵相模とは、品川遊郭にあった高級妓楼「相模屋」のことで、壁が土蔵づくりだったためにこう呼ばれていたそうである。
石碑になるぐらいだから、何かただならぬ歴史があるのではないかと思ったそこの貴方は実に鋭い。
さらに案内板が立っており、それを読むとその疑問は氷解する。
ここは倒幕派と呼ばれた幕末の志士たちの御用達だった場所で、英国公使館焼き討ち事件やあの桜田門外の変を企図したのがまさにこの相模屋であったという。
なるほど、そりゃ石碑ぐらい簡単に立つわな・・
名残と呼べるものはまさにこれだけ。
一応品川遊郭は1958(昭和33)年の売防法完全施行までは存続してたらしいけど、歴史が古すぎて建物がボロかったとか、集娼地じゃなかったから(街道筋に散在してたせいで)風俗街になれなかったとか、ほとんど憶測に過ぎないけどおおむねそのあたりの理由で歴史に幕を閉じたんじゃないかと思う。
で、このあたり、実は奇跡的に戦災をほぼ受けてない地域なのである。のみならず、あの関東大震災でも難を逃れたという。何という運の強さか。
その結果として、こういう素晴らしい建物が残っているわけである。
こちらは明治時代創業の星野金物店。まさに歴史の生き証人。
旧東海道から東側は一段低くなっている。昔はこの先が海だった名残である。そこに、またしても古ぼけた立て看板があり、品川台場のことが書かれている。
予定では11基造るはずが完成したのは5基。先日、韮山反射炉編で触れたけどそのうちの第三台場は現在「台場公園」として整備されている。
話を遊郭に戻そう。
名残と呼ぶには心もとない、というか違うと思うけど、斜め把手の物件が一軒だけ残っている。
この地を踏んだ先輩方が紹介してる通りだけど、まだありましたよ、という意味で。
玄関まわり見てもどうにも赤線建築っぽくないけどね。
さて、北品川駅の真東あたりに船溜まりがある。今は運河ぽっくなっているが、昔はここまでが東京湾だった。
北側には品川駅周辺の高層ビルを望む。が、よく見るとその手前に、何かに抗うように木造家屋がしぶとく地面にへばりつくように立ち並んでいるのがわかる。
行ってみた。
そこには品川でありながら実に品川らしからぬ街の風景が残っていた。けど…手前のコインパーキングは余計。これ要らない。
何なんだこれは、と思ったとほぼ同時に足元にこんな看板があるのを視線が捉えた。
何やら「北品川の古い民家の家並み」と書かれている。
見たらわかるよ・・そのまんまやないかい!解説がないのでググってみると、どうやら戦前の木造家屋のようである。
ってことは軒並み築80年くらい経っていようか。住人によってきちんと手入れされているようで、どこか小ぎれいささえ漂っている。
都心で戦前の住宅は結構珍しく、これほどまとまって残っているのはさらに珍しい。一見の価値あり、である。
すぐそばにも・・というかこのコインパーキングのところにも以前は立っていたと考えるほうが自然であろう。
「荒井家」という老舗うなぎ屋が廃業し、現在は洋風居酒屋「居残り連」となっている建物。その荒井家さんは、「居残り佐平次」という江戸落語にも登場する有名店だったそう。
商店街の金物店もそうだったけど、狭いエリアにこれだけ銅板建築が残ってるのは規格外とも言える出来事だった。
まったく期待せずに赴いた北品川で、思いがけない収穫を手にしたのはちょっとした嬉しい誤算であった。
[訪問日:2016年1月24日]
コメント
なかなか渋い建物残っていますね。
斜めとっての玄関が渋いな~。
お、ってことは品川行ってないんですね~。
遺構的には皆無なんでわざわざ行くこともないとは思いますが。。
>1958(昭和58)年の売防法施行までは存続してたらしいけど
昭和33では?
うわ・・ありがとうございます!直しときます。