千住柳町を歩く ~消えた遊里の残照~

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東京の北千住と言えば、千葉や茨城と都心をつなぐ、5つもの路線が乗り入れる都内屈指のターミナル駅である。
古くは江戸四宿のひとつに数えられ、かの松尾芭蕉が奥の細道へくり出した旅立ちの地がここ千住宿であった。

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千住大橋橋詰テラスにて(2012年6月撮影)

品川、板橋、新宿、千住の江戸四宿には、飯盛女(旅客の給仕と夜の世話をする女給のこと)を置く旅籠、いわゆる飯盛旅籠があった。
いずれものちの遊郭となるが、現在まで色街の歴史が続いているのは、当時と場所こそ違えど一大歓楽街を形成する新宿だけと言える。

千住遊郭は、鉄道の開通による街の発展により、おなじみの「風紀上よろしくない」を理由に大正8年(1919年)に移転。その移転先が、北千住駅から西へ約1kmの千住柳町であった。

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大黒湯

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駅から柳町へ向かうと、お隣の寿町に大黒湯がある。
以前、たてもの園の記事で「キングオブ銭湯」と称した下町の巨大レトロ銭湯である。

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近くには、こちらも昭和初期頃建てられたかのような畳屋さん。千住が古い街であることを示す数少ない名残のひとつ。

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さらに進むと、かつての大門を起点とする、その名も「千住大門商店街」が現れる。
遊郭は、この商店街から見て北側に位置していた。今でも、地図を見るとそこだけ道が直線になって整然と区割りされているのがよくわかる。

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大門通りが商店街になったわけではないので、名前だけ拝借したものと思われる。
夏らしい構図で一枚。

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商店街にある、まるでフルボッコにされたボクサーみたいな外見の双子鮨さん。
こちらの大将さんが遊郭のことを色々ご存知のようですよ。

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ここから真っ直ぐ伸びるのが大門通り。左手が大門通り商店街。
さて、では遊郭があった辺りを見て行くことにしましょう。

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結論から先に言うと、期待していたものはほぼ皆無に近いほどきれいさっぱりなくなってしまっていた。
こちらはなんとなく赤線時代の名残かなぁと感じた建物。

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遊郭のあった場所は現在は柳町だが、かつては「元宿」という地名だったそうである。
千住遊郭では、空襲の被害を避けるために戦時中に妓楼が間引かれており、それが奏功し全焼を免れている。

古い建物が残ったことで結果的に「死期」を早めることにつながったこと、そして近年目覚ましい発展を遂げた北千住の駅から徒歩10分強という利便性によってそれがさらに早まったのではないかと思っている。

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ご覧のとおり、今では清々しいほどに新し目の家が立ち並ぶ住宅街と相成ってしまっている。
旧郭内からは、夏にしては珍しく、スカイツリーがはっきりくっきり見えていた。

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千住は、戦後はRAAの指定地になりその後は赤線という王道の流れをたどっている。
出入口が3つあるこちらの建物は、立石にあったものと同様RAA時代の遺構ではなかろうか。

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千住遊郭は、戦前の全盛期には業者約60軒の娼妓約400人というからかなりの規模だったことがわかる。
戦後は、昭和30年に54軒253名とほぼ戦前の勢いを取り戻している。

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これなどはもうほぼ遺構と断定して差し支えない気がする。

何が言いたいかというと、それなりの広さでかなりの規模があったにも関わらず往時の名残がすでに消滅したに等しい千住は、我々のような人間からすると“見るに耐えない”街であるということ。

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よく見ると庇がアールを描いているのがわかる。
たぶん、それは死者を悼む気持ちに似ているのではないかと思う。
死んでしまった、もしくは死にゆく建物や街を目の当たりにすると、どうにもそういう感情に苛まれずにいられないのだ。
病気ですね、えぇ、自覚済みですw

そんなわけで、もはや見所は皆無で徒労に終わったと言っても過言ではない千住柳町の散策を終え、静かに踵を返した。

[訪問日:2014年8月11日]

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