標高1,729m。中国地方の最高峰であり、百名山のひとつでもある霊峰大山。
おそらく関東の人であれば5人中4人が「おおやま」と読むだろうけどそれは間違い。こちらは「だいせん」である。
この大山の北西麓に「所子(ところご)」という農村集落があり、2013年12月に伝建地区(重要伝統的建造物群保存地区)に選ばれている。今日はこの所子を紹介したい。
どこにあるん?
南東に大山、北に日本海を控える標高50m程度の緩斜面上という立地。
保存地区は山陰本線の大山口駅からも徒歩圏内と、アクセスも良好。
大山中学校の東側には観光客用の駐車場もあり、マイカーでも問題なし。
駐車場には案内板とパンフレットがあった。ないかなぁって思ってたからよかった。
これで散策も捗る。
農村集落
これを書いてる2017年5月現在、伝建地区は全国で115地区ある。そのうち、種別が「農村集落」となるのは5地区とかなり珍しい。
ひとつは以前紹介した五個荘だけど、あそこは近江商人の富で潤った農村だから特殊と言えば特殊。
所子は純然たる農村集落で、大地主であり豪農であった門脇家を中心につくられた集落。
よく商家町なんかで豪商の屋敷とかは見るけど、“豪農”という響きがそもそも耳慣れない。
町並みの特徴
大山への参詣道である坊領道(ぼうりょうみち)が集落の中心を通り、南東側の「カミ」、北西側の「シモ」というふたつの家屋群から成り立っている。
この坊領道に沿って敷地があり、主屋は道に並行(つまり平入り)、そして前面に門を構えている家屋が多い。
今いるのが「シモ」のほう。
こちらが重要文化財の門脇家住宅。
門脇家は江戸時代に(当時)所子村に移り住み、この地で大地主になったという。
この邸宅は本門脇家と呼ばれる「シモ」の中心で、毎年春、秋に一般公開が行われるそうな。
このどでかい茅葺屋根の主屋は明和6(1769)年に建てられたものだとか。
そろそろ250年・・( ゚д゚)ポカーン
ところで所子がなぜ伝建地区に選ばれたのかというと、
・天保14年(1843)の絵図(パンフレットに載ってます)に描かれている地図と比べてほとんど地割が変化していない
・伝統的建造物が文字通り「群」として残っている
・農地や水路などの周辺環境も含めて伝統的な農村集落の状態をよくとどめている
などが挙げられるという。
その水路は、大山から日本海へ注ぐ阿弥陀川の流れを集落内に取り込んだもので、よき風情を醸し出している。地元では「ツカイガワ」と呼ばれているそう。
ところどころ、こんな風に洗い場が設けられているのが特徴。
門脇家住宅とツカイガワ。ここが文句なしに所子で最も美しい風景だった。
東門脇家住宅。実はもうひとつ南門脇家住宅もあって(いずれも分家)、ここには門脇家が3つ並んでいる。
本家をわざわざ「本門脇家」と呼んだのはつまりそういうこと。
「カミ」の家屋群
ここから「カミ」。左手、前にポストのある建物が旧所子郵便局。
大正7(1918)年に開局した郵便局で、昭和27年に大山口駅付近に移転。
今は看板だけが残っている。
村の若者が力自慢を競ったという「力石」。
「カミ」最大の見所になるのがこちらの美甘(みかも)家住宅。
平成21年に国の登録有形文化財になった建物だけど、一般公開はされておらず。
門のところまで行ってみた。この厨子二階の主屋は、江戸時代末期に建てられたものだとか。
ところで、所子は中世はあの京都・下鴨神社の社領であったそうである。
おそらくその名残なんだろうけど、集落の南側にあるのがこの「賀茂神社」。
その賀茂神社の目の前からまっすぐ続く帯状の空間が「神さんの通り道」と呼ばれており、ちょうど「カミ」と「シモ」の境界になっている。
そこには田畑しかなく、たぶんここを基準にまちづくりをしたのだろう。
昔の人がいかに神仏を大事に考えていたのかがよくわかる。
駐車場のあたりまで戻ってくると、巨大な砲身が目についた。
大正12年に海軍から下付された巡洋艦「春日」の砲塔であるらしい。日清・日露戦争の戦没者の慰霊のために建立されたものだとか。
農村集落・所子。
霊峰、大山からもたらされた水源とともに発展した集落は、江戸時代からその姿を変えることなく現在も農村生活が営まれていた。
雨中の散策となり歩くのが少々難儀だったが、雨だって天からの恵みに他ならない。
“自然と共生する意味”を少し考えさせられた所子散策だった。
[訪問日:2016年12月24日]
コメント
いやいや、凄い町並みですね。
時代劇につかえそうな、、、
ところで、町並みはそれほど大きくないのかな?
周辺は一般住宅が立ち並んでいるのかな?
観光客が少ないのがいいね。
いやいや、時代劇に使えそうなほどではなかったですよ(笑)
町並みは小さいですねー。保存地区はのんびり歩いても30分もかからないぐらいです。
周辺は田畑が多かったと思います。