愛のコリーダ最終章 ~阿部定がいた篠山「大正楼」その最期を追った~

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今年2月21日。

近畿地方のある地方紙が掲載したローカル記事が
全国の遊郭ファンを失意のどん底に叩き落とした。

そこには目を覆いたくなるようなこんな見出しが踊っていた。

– 阿部定がいた元遊郭取り壊しへ 「大正楼」倒壊の危険性高く –

とうとう来たか・・という思い。と同時に、最期の瞬間まで見届けることを密かに決意し、動向を静観することにした。

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大正楼とは

兵庫県篠山市にあった遊郭、「京口新地」。大正楼は同地の妓楼で、歴史上あの阿部定が最後に勤めた遊郭として知られている。

1931(昭和6)年、26歳の冬に大正楼に流れ着いた定は、「おかる」の源氏名を名乗っていた。
※満年齢では25歳。戦前は数え年が使うのが一般的だった

大正楼の仕事はキツく、一度逃げ出そうとして連れ戻され、源氏名を「育代」に変更。その後、流れて来てから半年ほど経ったときに店から逃げ出し、そのまま娼妓をやめた。

大正楼とはそんな建物である。そして、1931年から数えてもざっと88年が経過している。

2018年、大正楼を悲劇が襲う

兵庫県と言われると、「神戸」「有馬温泉」「淡路島」「姫路城」「夜景」あたりがぱっと浮かぶ。もう少し絞り出すと「かつめし」「播州ラーメン」など...

筆者がここへ初めて足を運んだのは2013年の大晦日。旅行で関西を訪れ、神戸からレンタカーを借りた。
色街を歩き始めた本当に初期の頃だったので、実は個人的に思い出深い場所だったりする。

2013年当時の大正楼

その後、奇しくも関西に移ったことで行こうと思えばいつでも行ける距離になった。
次に来たのは2017年4月。別件で篠山に来る用があり、ついでにふらっと立ち寄った。

2017年4月の大正楼

特に変化はなく、ただただ懐かしいなぁと思いながら家路に着いた。
そして翌年9月。

憶えているだろうか。

大阪を直撃した台風21号が近畿地方に甚大な被害をもたらしたことを。(うちもまる1日停電と断水でエライ目に遭った)

90歳近い建物があの強風に耐えられるわけがなく、痛恨の一撃をくらった大正楼はなすすべもなく半壊してしまったのだ。

そして行政代執行へ

年末近くなり、にわかにSNS上で「大正楼年内解体」などという不穏な書き込みを見かけるようになった。

それはなかなか・・穏やかじゃない。

真偽を確かめるため、年末に現地へ赴いた。
三度目の訪問である。

2018年12月の大正楼

建物はまだあった。が、玄関に何か紙が貼られている。そして、バリケードのようなものが置かれている。
明らかな異変・・これはただならぬ事態だと直感的に思った。

見上げて唖然とした。なんと、屋根が半分吹き飛んでいた。
これは酷い…。

裏手に回ると、屋根が飛んだせいで建物内部が見えるようになっていた。
見えるのは嬉しいけどこれじゃいつ崩れ落ちるかわからない。危険すぎる。

そして、件の貼り紙にはこう書いてあった。

“持ち主に告ぐ。1月11日までに壊すか直すかしなさい。これは命令だ。”

これでやっと話がつながった。

命令が無視されたことで「行政代執行」での取り壊しが決まり、2月21日の丹波新聞の記事で皆が知るところとなったのである。

2月27日には行政代執行が始まり、同日の丹波新聞には以下見出しで記事が載った。

– 阿部定いた元遊郭、行政代執行開始 状況確認、本格的に取り壊しへ –

大正楼の内部を見た

行こうと思えばいつでも行ける距離にいることは幸運だった。最期を見届けたいという思いに衝き動かされ、3月3日、現地へ急行した。

解体が始まったら建物なんて一瞬でなくなってしまう・・もう更地になってるだろう・・と思いながら行ってみたら

まだあった。(ぇ

しかも・・

瓢箪のガラスがなくなってる!!?

ま、マジ・・

おおおぉ

何という幸運・・
(でもなんて地味な意匠なんだ…)

こ、こんな貴重なものが見れるなんて・・はるばる足を運んだ甲斐があった。
ありがたや、ありがたや。

ただ、これが今生の別れになることもわかっていた。
おそらく、次はもう・・

そして1週間後。3月9日だった。

レミオロメンを口ずさみながら、更地になったことを確認するためにまたも訪れた。

ええぇぇぇぇ

まだ終わってないんかい!!
全力でツッコんでしまった…。

裏に回ると、今まさに小さな重機でせっせと壊してる最中だった。
でもまだ、建物はほとんど残っていた。

なんて遅さだ。。信じられぬ。。

2019年3月、大正楼はこの世を去った

少し期間が空いてしまったが、昨日、満を持して篠山へと車を走らせた。
今月、三度目の訪問。ここまで来るともはや週末移住である。

今度は、結末をすでに知っていたので幾分気が楽だった。

大正楼の跡地は、思った以上に広かった。

一人の女性によって後世まで衆目を集め続けることになった数奇な建物は、まるで平成の終りに帳尻を合わせるかのように呆気なく無に帰した。

前出の丹波新聞の記事では、地元住民がカメラを持って歩く人に困惑しているという記載があり、改めて、色街を歩く難しさを考えさせられた。

歩くだけならまだいい。

どうやって入ったのか知らないが、SNS上では、どこぞの廃墟マニアが不法侵入して撮った内部写真が大量にアップロードされていた。
法を犯さなければ満たせない程度の安っぽい承認欲求なのだろうが、言語道断である。正直、この上ない怒りを覚えた。

また、キュレーションサイトでもまとめ記事をいくつか見かけた。

現地に行ったこともないばかりか今まで存在すら知らなかったような輩が、ネットで拾った写真や情報でまとめた記事で小遣い稼ぎをする。

自らの時間とお金を費やして現地へ行った人の労力を土足で踏みにじる行為。冒涜以外の何物でもない。

自分が同じことをされたらどう思うか一度真剣に考えてみてほしいと切に思う。

好奇の目を向けられやすいというのは、色街の性質上仕方のないことだと思う。

ただ、建築的な価値や文化的側面から保存を願い、研究しているような真面目な方も大勢いる。

基本的には、遊郭というのは地元住民からしたら隠したい過去であり、招かれざる客である。あたかも観光名所でも訪れるようなノリで行くと、十中八九歓迎はされないであろう。

“大正楼解体”

平成の終わりに遊郭クラスタを震撼とさせたその出来事は、我々に色々な命題を突きつけてエンドロールを迎えた。

大事なことは手遅れになってからわかる。

90年ほど前。
阿部定が娼妓としての晩年を過ごしたその建物を、もう二度と見ることはできない。


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コメント

  1. 定マニア より:

    阿部定関連の本を何冊か読み漁りました。その中の「はじめての愛」で、著者が1987年頃に大正楼を訪ねた様子が書かれています。土間の一廓に自然石を積んで水の流れる泉水をしつらえ、その上に、女郎の写真を飾っていた棚があった。水のない泉水に幼児の可愛い靴が何足か並んでいた。おそらくお孫さんのものだろう。上がりかまちも、やり手婆さんと抱え妓が客待ちしていた当時のままで、百年を経た床板は磨き込まれて黒びかりしていた。・・・著者は、その人に配慮して、一部を脚色して書くものだと思っていたので、違うんじゃないかな?と思っていました。しかし、写真を見たら、本当に泉水と上がりかまちがありましたね。女郎の写真を飾っていた棚らしきものは、取り壊しの様子を掲載した地元紙の写真にありました。現在、所有者とされている人は、可愛い靴の主でしょうか?ちなみに、この1987年頃は、阿部定さんはご健在でした。著者が、阿部定さんの姪(横浜で芸者をしていた千代菊さん?)の娘さんを訪ねた際、今でも電話で話しているとこたえていました。身延山久遠時に献花が届かなくなったのが1988年頃だそうですから、亡くなったのは取材した翌年?

    • mast-mo より:

      1987年頃に“百年を経た床板”の描写が本当であれば大正楼は明治20年にすでにある計算になりますが、実際は明治41年のはずですのでどこか別の場所で使われていたものだったのでしょうか。
      内部はその本の描写と符合している気がします。
      所有者は・・そうですね、当時のお孫さんかもしれません。行政代執行になったと言うことは、連絡がつかなかったか、すでに他界してるか、そんなような気がします。
      1988年、そうだったのですね。割と近年までご存命だったことに驚きました。