熱海の糸川べりに寄ったあと、さらに小田原で寄り道。
小田原にはかつて初音新地、抹香町という二ヶ所の遊郭があったそうで、抹香町のほうはカフェー街として戦後も存続。というわけで界隈を歩いてきた。
竹の花新地
の前に。小田原駅の近くにも竹の花新地と呼ばれる色街があったとの情報を元にまずこちらを散策。
国道255号線に「竹の花」という交差点があるが、その西側一帯にかつての新地だと思われる場所があった。
熱海から直行したので、朝の8時頃とこちらもまだ早朝の部類に入る時間。連休の朝っぱらから遊里めぐりとは、健全な過ごし方で何よりです。
スナックやカラオケがある一角に往時の名残が感じられる。
この辺りは、城下町時代は半幸町(はんこうちょう)という場所だったようだ。
寝不足の上に熱海で散々歩き回ったので、竹の花新地散策は早々に終了。本来の目的地である抹香町へと向かいます。
抹香町
抹香町という地名は現存せず、現在は小田原市浜町。地図を見ると、付近ではそこだけが碁盤の目のように整然と区割りされていて妙に得心がいく。
かつては旅館や料亭があった土地で、現在でもこのような黒塀が残っているのが特徴。
昭和30年発行の『全国女性街ガイド』にも小田原の記述があるので、引用させていただくことにする。
作家川崎長太郎氏が「抹香町」その他の連作小説で、あくことを知らず営々と、ここの赤線を書いたので一段とさびれ方に艶がついてきた。
『もともと、私といふ女、「馴れ」と云ふより、夜毎違った男を、腹にのせて、稼ぐにふさはしい血が流れてゐるらしく、みも知らない、始ての客とでも、先きの出方ひとつで、結構調子を合はせて、有頂天になれるやうな趣きがあります。いつそ、商売がはた目でみる程苦にならない、といつた寸法で、心がけのせいも勿論ありませうが、一々洗滌所までついて行つて、客のかゆいところへ手を廻し、あれこれ世話やくことなども、大していやではありません』
と連作の「金魚草」の中でも、娼婦の一つのタイプを書いている。〔駅のすぐ近く、二宮尊徳の碑が建つているのも大時代的。約三十名の神奈川生れが客を呼んでいる。なかには、もちろん川崎氏のお馴染もいるわけ〕
「赤線跡を歩く」にもあるが、小田原出身の小説家川崎長太郎が小説内で紹介したことで抹香町はその名を知られることになる。
カフェー街と言っても、奇抜な意匠や豆タイルが目を引くカフェー建築が残るわけではない。
正直なところ、知らずに歩いたらここがカフェー街であったなどつゆほども思わないであろう閑静な住宅街が広がっている。
かつて料亭(?)であったかのようなお宅には、当時の屋号が残っていた。
「赤線跡を歩く」で紹介されている建物。鮮やかなベンガラ色の塀とあったが、すっかり白茶けてしまっている。
こちらも「モダンな外装に往時の面影を残すお宅」と紹介されてますね。
抹香町の中で一番特徴的な物件でした。
ちなみに「最も規模が大きかったと思われる」と紹介されていたお宅は現存せず。
これも色街の名残と見なしていいのだろうか。
まぁ普通はこんな色にはならないと思うので。
カフェー街だったと意識しながら歩くと、不思議なことに変わった意匠の建物が結構目についたりする。
雪山で女の子が3割増しに見えるゲレンデマジックと同じ法則ですかね。
こんな駅から離れた住宅街の一角に突如スナックが現れるあたり、やっぱり色街の名残だと言わざるを得ないでしょうね。
この日は地域のお祭があったようで、朝から地元のヤンキー風の粋のよい兄ちゃん姉ちゃん達が忙しなく付近を闊歩していた。
何の洗礼だよ、と愚痴りたくなるほどにまち歩きがしづらいことこの上なかった。
あるお宅の玄関に「抹香町ステッカー」が貼ってあった。かつてここがカフェー街であった動かぬ証拠をこんな形で発見するとは。
抹香町は、駅から離れていることもあってか比較的こじんまりとした遊里であったようだ。妓楼建築のなれの果てであったり、浮世離れしたカフェー建築などは皆無だが、隠れ家的な静けさをたたえる町並みは往時を偲ぶには充分すぎるほどのスペックを兼ね備えていた。
何より筆者にとっては小田原は縁とゆかりがありまくる地なので、遊里めぐりをしてること自体が新鮮でなんか妙な気分だった。
世の中にはまだまだ知らないことがたくさんありますね。
[訪問日:2014年5月5日]
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