長崎県の北西。
そして、陸路で行ける場所としては日本国内最西端。文字通り“最果て感”満載の長崎県平戸(ひらど)市。
そんな平戸をぷらぷらと歩く機会があったので、町並みとともに歴史についてもちょっとだけ触れてみようと思う。
平戸に来たのは7年ぶり2回目。
前回はほぼ立ち寄っただけで、観光らしいことはほとんど何もしてなかった…らしい。(写真が全然なかった)
あ、これは見たぞ。憶えてる。
平戸の歴史
というわけで、平戸中心部の「宮の町本通り」~「オランダ商館通り」を歩きながら平戸の歴史について勉強していきましょう。
平戸と言えば古くから大陸との交易が活発だった場所で、日本初の国際貿易港として栄えたまち。まぁこれは日本史が好きな人には常識かもしれませんね。
遣隋使、遣唐使の時代から寄港地としての重要な役割を担っていた平戸。戦国時代の1550年にはポルトガル船が来航し、商館を設置。これが発展への幕開けとなった。
ちょっと待った。その前に、平戸随一の有名スポットの紹介をしておこう。
それがこちら。名前はそのまんま「寺院と教会の見える風景」。
聖フランシスコ・ザビエル記念教会と寺院が織りなす平戸を代表する景観。要は、“日本と西洋の文化が融合した場所なんですよ”、ということ。
名前から容易に想像がつくけど、あのザビエルさんは平戸にも布教で来てるんですね。
ここだけ写真が残ってたので、たぶん前回はここ目当てに訪れたんでしょう。
ここは高台になってるので、振り返ると平戸のまちがいい感じに見えます。
さて、話を戻しましょうか。
ポルトガルから遅れること30年。今度はスペインが商館を設け、その後もオランダ、イギリスと立て続けに交易がスタート。
多くの外国商船が出入りする平戸は文字通り日本の玄関口として繁栄していくことに。
ところが、この辺から雲行きが怪しくなっていく。トリガーとなったのは江戸幕府の鎖国政策。
江戸初期の1616年、まず外国船の入港を長崎・平戸に限定する措置が発動(中国船は除く)。
先陣を切ったのはイギリス。1623年に対日貿易から撤退して平戸の商館を閉鎖。
続いてスペイン船の来航が禁止され、ポルトガル商館、オランダ商館が相次いで長崎の出島に移され、あれ、気づいたら・・
そして誰もいなくなった。
そんなわけで、輝いた時代もわずか90年で終わりを告げた。
長い歴史から見たらホント“一瞬の輝き”・・まるでセミみたいだ。儚いなぁ。
って・・ん?なんだこのアンパンマンは。
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