竹富島から石垣島へ戻り、その足で沖縄本島へ飛んだ。
最初で最後のバニラ・エア搭乗となった1時間の空の旅は、天候にも恵まれ最高のフライトだった。
前回沖縄に来たときに泊まった松山の安ホテルを横目にぶらぶらと歩き、この日は前島のホテルに投宿した。
三日目を迎えた翌日は、ぽつぽつと雨が落ちる寒い朝だった。
元々の八重山諸島との気温差に天気の分が乗っかり、あれほど暑かった石垣島から一転、今度は寒さで震えるような事態に直面した。
泊港ターミナルで往復のチケットを購入し、久米商船の「フェリー琉球」に乗り込んだ。
向かう先は『渡名喜島(となきじま)』である。
Voyage of death
8:30に那覇を発ち、渡名喜港には10:15に到着する。1時間45分の船旅だ。
この日はしけがひどく、外洋に出ると船体が大きく揺れ始めた。それどころか、波にぶつかるたびに破壊音が轟き小刻みに揺れる。恐怖を感じるレベルだった。
そして、出港後1時間もしないうちに体に異変が生じ始めた。
めまい感のような、意識が遠のいてくる感覚。次第に平衡感覚が怪しくなり、頭がくらくらしてきた。
朦朧とした意識の中、震える指でスマホをまさぐり「船酔い 症状」とGoogle先生に問うたところで解を得た。
あかん、これ船酔いだわ・・
初めての経験だった。
ふらふらと覚束ない足取りでトイレへ駆け込み、そのまま地べたに崩れ落ちた。
遠のく意識。
極限状況の中、ゴッドハンド(ゴールドフィンガーとも)を発動したことまでは憶えている。
その後、小康状態とビッグウェーブをくり返し、回復の兆しがまったく見られないまま“死の航海”は続いた。
正直、気を失ったほうがマシだと思えるぐらいの苦しみだった。
洗面所の鏡に映る自分の姿。
それはどう見ても瀕死のマーライオン以外の何物でもなかった。
仮死状態でなんとかたどり着いた渡名喜島。すでに明日の帰りが憂鬱でしかなかった。
空も重い。こんな状態で観光を楽しめるのか。
渡名喜島へやって来たのは、この島が重伝建(重要伝統的建造物群保存地区)になっているからだ。
今回の旅は、竹富島とこの渡名喜島に来ることが最大の目的だった。
この日お世話になったのは、港から一番近い「民宿ムラナカ」さん。
ひとまずチェックインをし、少し部屋で休ませてもらうことにした。
二階の廊下からは、港方面がよく見渡せた。これも高い建物が少ない沖縄ならでは。
集落を歩く
ようやく体調が安定してきたところで散策へと出かけることにした。
集落を東西に貫く村道1号線。通称「フットライト道路」。
ご覧の通り、道の両側に背の低いポール灯が取り付けられていて、夜はこれによってライティングされる。
渡名喜島の特徴を一言で言うなら「沖縄の原風景が残る島」。
竹富島との違いは、向こうは観光向けの絵になる町並み、こちらは手つかずのまま残るほんまもんの原風景、と言ったところ。
赤瓦の民家と白砂の道路とサンゴの石垣。ここまでは竹富島と同じだが、渡名喜島はこれにフクギの防風林が加わる。
さらに、家々が道路より一段低い位置に建てられている。いずれも台風への防風対策である。
屋敷林とも言うように、家々は完全にフクギ並木に覆われていて昼間もどことなく鬱蒼としている。
この「フクギのトンネル」は竹富島では見られない、渡名喜島ならではのもの。
古い民家が多く、解体中や倒壊寸前のものまであった。この辺りでもギャップを感じた。
渡名喜の集落には二軒の商店がある。(不定休)
琉球王朝時代の遺跡があった。
街路や交差点は直線ではなく、まるでフリーハンドで描いた図形のように微妙にずれたり湾曲したりしている。
この変化が景観に揺らぎを与えており、目を楽しませてくれる。
シーサーも各家で個性があって、よくよく観察すると面白い。
よくイメージされる素焼き風の茶色のものは意外と少なく、カラフルなものが多かった。
常緑広葉樹のフクギは長いものでは樹齢200年や300年のものもある。
長い間台風から集落を守ってきた木々に頭が下がる。
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