昨秋、岐阜方面に2泊3日の小旅行に出かけた。
メインは久しぶりの飛騨高山&白川郷と、さらに久しぶりの下呂温泉。
岐阜県を縦断しなければならないので結構な移動距離になることははじめから分かっていた。
後半に負荷をかけたくなかったのでとりあえず遠いほうから回ることにし、そんなわけでめでたく最初の目的地が自宅から軽く300kmオーバーとなることが決まった。
まずはじめに向かったのが、7年前に行きそびれた五箇山のもうひとつの世界遺産・・・「菅沼集落」である。
東海北陸道を走ったのもずいぶん久しぶりのことで、前回はまだ飛騨トンネルが絶賛建設中だったので荘川ICから国道156経由で白川郷まで行ったよなぁ、懐かしいなぁ・・なんて思いながら白川郷をびゅーんと越え、五箇山ICで降りた。
ここから菅沼集落までは、誇張でも何でもなく目と鼻の先ぐらいの距離だった。
五箇山・菅沼集落
白川郷とともに「白川郷・五箇山の合掌造り集落」として世界文化遺産に登録されている菅沼集落。ここは岐阜ではなく富山県の南砺市になる。
相倉のところで触れたとおり、1995年に世界遺産登録、その前年には「山村集落」として重伝建(重要伝統的建造物群保存地区)に選定されている。
国道156号線の展望地から菅沼集落を俯瞰する。
まるで箱庭に見えなくもない、小さな小さな合掌造り集落。
この写真、実は東武ワールドスクウェアで撮りました、とか言われても普通に信じられそうなぐらいの雰囲気である。
さて、それでは早速そんな集落の中を歩いてみようと思う。
駐車場から集落へは、エレベーターからトンネル経由で向かうか、遊歩道のような坂道を下るか、国道を歩いて行って迂回するように戻るか、3通りの行き方がある。
いずれにせよ大した距離ではない。
行った時期がちょうどよく、収穫を待ちわびる金色の稲穂が風にそよそよと揺れて季節を彩っていた。
まさに世界に誇れる日本の宝と言えるような素晴らしい風景だった。
五箇山の歴史とか
菅沼集落には、現在9戸の合掌造り家屋が残っている。
江戸末期に建てられたものが2棟、明治が6棟、最も新しいものが大正14(1925)年なので最低でも100年程度は経過している。
相倉の1/4ほどしかない小さな集落なので、一周歩いても10~15分程度。
だからと言って見どころがないかと言えばそうではない。
厳しい自然の中で守られてきた人々の暮らしと伝統、四季折々の美しい表情を見せてくれるまさに日本の原風景とも言える山村風景がここにはある。
五箇山は、地理的に非常に山深い場所にある。国内でも屈指の豪雪地帯だ。
源平合戦で敗れた平家の落ち武者が逃れてきた、いわゆる「平家の落人伝説」が数多く残されているそうであるが、この場所ならそれも納得できる。
江戸時代には加賀藩の領地となった五箇山。
しかしながら、耕作地が少なく米があまり獲れなかったため、養蚕や製紙などの産業が発達した。
中でも、火薬の原料となる「塩硝」は、藩の庇護のもと主要産業となった。
これは、前田家が幕府の目を欺くために僻地である五箇山でこっそり作らせていた、と言う説があるそうだ。
結局塩硝づくりについては、明治になり加賀藩がなくなるまで約300年続いた。
また、五箇山には加賀藩の流刑地だったと言う歴史がある。
塩硝づくりの機密保持の狙いで藩は地域を流れる庄川への架橋を許さず、今で言う遊園地のアトラクションのような、「籠の渡し」なるスリリングな乗り物で川を越えなければならなかった。
流刑人が容易に逃亡できない地理的要因があったのである。
集落に近接する『五箇山合掌の里』へ行くと、復元されたこの「籠の渡し」が見れるそうだ。(未確認)
春は桜、秋は紅葉、冬は雪化粧といつ行っても美しい菅沼集落。
ちょうどコスモスの時期だったが、向日葵が最後の生命を燃やし懸命に咲いていた。
菅沼集落は、庄川が蛇行する部分に形成された僅かな河岸段丘に位置している。
平地がほぼない地形で、ここしかないと言った感じの場所に田畑をはじめ人々の営みが凝縮されている。考えてみたらすごいことだと思う。
そんな菅沼集落で最も古い合掌造りと言われているのがこちらの「五箇山民俗館」。
ここでは五箇山での暮らしや歴史を学ぶことができるので是非とも見学されることをオススメしたい。(内部は撮影禁止)
で、もうひとつが「塩硝の館」。
こっちは塩硝づくりについて学ぶことができる。興味があれば是非に。
稲穂と合掌造り。
古き良き日本ってこういうもののことを言うんだろうね。
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