古都・奈良。
なんと素敵な平城京に都が置かれた、京都より古い歴史を持つ街である。わずか84年間の奈良時代ではあるが、律令国家の礎が築かれた歴史的に極めて重要な時代であった。
そんな奈良に、日本最古とも言われる「木辻遊郭」なる色街があったとのことを知り、それならばと訪れてきた。
奈良三大遊郭
木辻遊郭は奈良三大遊郭のひとつ(あとは東岡、洞泉寺)で、世界遺産の元興寺の南西に位置する。最寄り駅はJR桜井線の京終(きょうばて)という駅だが、そこからでも15分弱くらいはかかる。
奈良駅から歩けば最低20分はかかると見ておいたほうがいい。とにかく駅から遠い。
そばにはビッグナラというスーパーがあり、なぜかかつての大門がそのままスーパーの案内板(アーチ)になっている。
つまり、ここがかつて中と外を隔てる結界となっていた場所である。
ではなぜこんな場所に遊郭ができたのか。その鍵を握るのが元興寺である。
710年の平城京遷都により、飛鳥にあった法興寺(元興寺の前身)がこのならまちに移転してきた。
その建立の際、職人や人足たちをつなぎ止めておくため目と鼻の先に遊女屋が形成されたのが始まりとされる。
移転自体は718年のことなので、実に1300年前という気の遠くなるような昔になる。
旧大門の前にやすらぎ書店という名の一見して営業してなさそうな本屋。
外観が遊郭時代のそれに見えるけど関連がよくわからない。そしてなぜか壁に雑誌のコピーと思われるAKBなどアイドルの写真がべたべた貼られている。
ビッグナラのアーチの先が遊郭のメインストリートになる。売防法施行後はそのまま廃業してしまったようで、現在ではこんな感じの古い建物すらまばらでほとんどが新しい住宅に建て替わってしまっている。
なんとなく遺構かなぁと思えるのがこちら。
寛永6年(1629年)に江戸幕府から正式に許可されたことが木辻遊郭の始まりとされているが、すでに900年以上前からその前身があったと考えると、確かに日本最古の遊郭と言うのも正しいことなのかもしれない。
振り返って大門のほうを望む。
ならまちを歩いたことがあればご存知であろうが、格子を持つ町家がここの特徴である。
木辻遊郭の名は、遊郭の置屋で見られた木辻格子がその由来となっているが、その形状は他の町家では見られない、ここオリジナルのものであったそうだ。
現在では遊郭とともにその姿を消してしまい、残念ながら見ることはできない。
が、遊女の投げ込み寺であった称念寺の片隅にひっそりと展示されているらしい。(未確認)
もう一軒の遺構っぽい建物。
キレイに修復されているが、かつてこの場所で遊女たちが哀しみを帯びた目で道行く嫖客たちを見つめていたのだろうか。
そんな情景を浮かべてみる。
坂を上りきり、四ツ辻を越えた右側にあるのがこの花園新温泉。
外観からして、どう見ても遊郭時代からの存続組に見えるが、なんとまだ現役なのだ。
前夜、ここから徒歩10分ほどのところに泊まったものの、一日中歩きづくめでくたくただったのであえなく諦めてしまった。
四ツ辻を北へ曲がったあたりが奈良市鳴川町となり、このあたりが木辻遊郭の中心部だった場所になる。早速遺構のような艶っぽいボロ屋が一軒。
そしてそのボロ屋の目の前に立つのが、正真正銘の元妓楼で旅館に転業した『静観荘』。なんと創建は大正時代とのことである。
現在では唯一残る木辻遊郭の遺構となる。
ちなみに今でも現役で、見ての通りの外観なので外国人旅行客に大層ウケて、駅から遠いにも関わらずなかなか予約が取れない宿として有名。
と言うのも、実はこのときの遠征で予約を取ろうと試みたものの、「満室です」というご回答を頂いたのだ。これには心が挫けそうになった。
それでもめげずに、翌月にリトライするもまさかの連敗。
筆者は往生際の悪さには定評があるので、ならばと「お客さんがいない昼間に中を見学させてほしい」旨を告げると、あに図らんや快諾いただいたのでずいぶん楽しみにしていたところ、台風直撃により旅そのものが中止となってしまったのである。
こういうこともあるよね?こういうこともあるよね?
無意識的に二度繰り返し泣く泣く自分を納得させました(涙)
しばらく関西に行く予定ないけど、いつかまた懲りずに予約に挑戦したいと思います。
「三度目の正直」となるか、「二度あることは三度ある」になるか・・はてさて。
そんなわけで、街並みとしてはもう見所は残されていないに等しい日本最古級の遊郭、「木辻遊郭」のレポートはこのあたりで筆を置くことにする。
次回はならまちのことを書いていきたい。
※静観荘には2018年に念願叶って宿泊できましたが、2021年に廃業、2022年に惜しまれながら解体されました
[訪問日:2014年7月20日]
コメント
1私の育った隣の町が木辻町、私75歳、小学生のころは夜は赤や黄色や青の照明でにぎやかでした、私等は旅館と教えられたこともある。私の家の裏に遊郭で引き込みの仕事していたおばあちゃんもいました。記事にあるスーパービッグ奈良はもと、おやま病院といって働く女性の性病検査がおもにしていた病院の後で進駐軍のいる時代は進駐軍相手の女性の検査もそこでしていた、もう今は無いが農業用ため池が近くにあって遊郭で死んだ女性、自殺、気の毒な女性の墓石や墓標が池から出てきたと年寄りに聞いたことある。
松岡様
ビッグナラは元病院、そうでしたか。木辻が進駐軍向けの場所だったというのも初耳です。
私は三十代ですので、遊郭があった頃の話は書籍や伝聞でしか知り得ることができません。
現役時代を知る世代の方からの貴重なコメント、非常に嬉しく思います。ありがとうございました。
今更ながらコメントとは思いましたが、覚えているうちに書き残して置こうかと思いました。興味がありましたら、続きを読んでください。
私は現在55歳、もうその時は、賑やかだった頃より月日は随分経っており、松岡様のおっしゃるビッグナラも奈良デパートでしたっけ?そこが病院とは知りませんでした。
私が保育園の頃 祖母と、木辻で、遊郭とおぼしき一室で間借りをして暮らしておりました。そこはお寺の横で、それは多分称念寺だと思われます。まず入り口は薄暗い通路の奥まったところにあり、一箇所、大人がやっとすり抜ける事が出来るくらいの狭い幅になっておりました。すぐ横はガラス窓の半畳くらいの小さな部屋があり、今思えば逃げられないように監視していたのかと。。そこを抜けるとまるでトンネルから抜け出たかのような明るさが広がり、右には腰高の廊下が続き、庭を囲むように約8畳から10畳くらいの間隔で襖で仕切られた部屋が一階と二階に作られていました。私はその一階でしばらく住んでおりましたが、その庭はまるで庭園のようで、全ての部屋からその庭を眺めることが出来ました。井戸もあり、水はそこからも汲んでおりました。
また先ほどの入り口から左にはタイル張りのお風呂があり、その横には炊事場、おくどはんが2つほどしつらえてありました。夜になるとお風呂場と炊事場の橙色のほんのりとした、また、部屋からもれる淡いぼんやりとした、そして庭を照らす月の透き通った明るさが今でも思い出されます。
清水様
貴重な体験談を頂戴いたしまして、感謝いたします。
庭を囲むように部屋が並んでいたとの情景描写、とてもよく理解できます。
洞泉寺の川本邸(現町家物語館)もそうでしたが、当時は下宿やアパートに転用された妓楼がやはり多かったのですね。
失われてしまった時代の心象風景は、二度と現実として蘇ることはありません。
往時を知る方のお話は本当に貴重なものだと思っております。ありがとうございました。