奈良県は大和郡山市にあった郡山東岡遊郭。
全国遊廓案内を紐解くと、貸座敷(揚屋)21軒の娼妓190人とあり、大阪と同じく置屋からの派遣制だったと記されている。
奈良三大遊郭と称された歴史あるシマが、あろうことか東南アジア系の女性が働く売春街にまで零落。壊滅後の死んだ色街を引き続き歩いて行く。
異様な雰囲気を感じた街
先ほどの三階建の妓楼の遠景。
だたっ広い空き地。たぶんここにも妓楼が建っていたんだろうな。
奈良では娼妓のことを「おやま」または「子供衆」と呼んでいたらしいが意味がよくわからない。
いや待てよ、そう言えば新宿遊郭でも遊女のことを子供って呼んでいた。楼主にとっては我が子のような存在だったからであろうか。
一見して普通の民家なのにこのピンクの看板。不自然だ・・不自然すぎる。
さっきの空き地が新地の東端に当たるので、次は西側を見てみようと一度たばこ屋のあたりまで戻る。
抜けるような晴天、夏の空。朝一番。今思えばこれが救いであった。
歪んだ歴史が刻まれた地だけあり、陰鬱な重苦しい雰囲気が漂っていると、この地を踏んだ先輩諸氏は口を揃えてそう言っていた。
確かにそれは訪れてみてよくわかった。
今では旅館もほとんど潰れてしまったことは廃墟が物語っているが、関係者でこの地を捨てた人もまた多かったのではないだろうか。
この信楽焼のたぬきは、ある意味この街で起こった歴史の生き証人かもしれない。滑稽な話である。
休日の朝9時前という時間だったからなのか、そもそも住んでいる人が少ないからなのか、そう言えばほとんど住民に会わなかった気がする。
たばこ屋の二軒隣りには、ファサードがカフェー調に改装された立派な三階建て。
ドアの貼り紙には「売物件」と書かれていたが一体いくらなんだろう。
ちなみに右横に見えるのが、この街を支配していた893屋さんの事務所らしい。凄まじい立地条件である。
郡山新地の情報をネットから拾い集めてみると、やはり徐々にではあるが遺構もその数を減らしているようで、更地になっている場所がところどころ散見された。
さすがに25年も経っているんだから無理もない。
当時の屋号『吉乃』がそのまま残る妓楼。
またしても中の様子が見えたので・・唖然。
遊郭特有の中庭も確認できる。せっかく立派な建物だったのに。勿体ない。
郡山新地は、東岡町にあったからか「岡町」とも呼ばれていたらしい。
大和郡山には遊郭が二つあったことは先述のとおりで、もうひとつはここからも近い洞泉寺町にあった。
売防法施行後、岡町のほうはこっそり営業を続けたが、洞泉寺のほうは廃業。
次回はこの洞泉寺の遊郭跡を見て行きたい。
おまけ。
郡山新地のすぐ南側には金魚田があり、もっとも大和郡山らしい風景を見ることができる。
全国的に見ても珍しい光景と言えよう。
お世辞にもメジャーとは言えない大和郡山市。今まで全国津々浦々旅してきたが、通過したことすらなかった“盲点”とも言える街に、圧倒的な破壊力を持つ町並みが残されていた。
このクラクラするようなギャップに酔いしれながらぽつり、こう呟いた。
これだから旅はやめられない。
[訪問日:2014年7月21日]
コメント
結構前の記事ですけど近くに住んでいるのでコメントします。
自分ただの旅館やと思ってました。
その空地ですけど たしかそれっぽい作りのものがあったような
コメントありがとうございます。
やはりそうでしたか。あまりにも不自然な空き地だと思ってました。