鉱都の遊里。新居浜の赤線跡を歩く

この記事は約4分で読めます。

銅山と栄枯盛衰を分かち合った新居浜のまちには、言うまでもなく男たちの“はけ口”があった。
銅山観光を楽しんだ後、色街があったと思われる場所を探し求めて新居浜の市街地をぶらぶらと歩いた。

かつて、船着き場の近くに物資の検閲や中継を担った「口屋」があった。
別子銅山とこの口屋を結ぶ街道を『登り道』と呼び、鉱山鉄道ができるまでは文字通り新居浜のメインストリートだった。

この登り道の一部が、現在サンロードなるアーケードになっている。
このあたりから散策を開始した。

程なくして暗くなってきそうな夕刻、何やら空模様も怪しい。
この日の散策はここで打ち止めにするつもりだったので、タイムリミットまで歩くことにした。

かつて盛り場があったと思われる界隈は、現在新居浜駅があるエリアからは大きく外れている。
それもそのはず、当時最も栄えていたのは港があったあたりであり、登り道が通っていたあたりなのである。

銅山とともに生きたまちなのだ。至極当然の話であろう。

ダンスホールの跡

おさらいすると、銅山が閉山したのは昭和48年。端出場に第四通洞が完成したのが大正4年、本部が移ったのが昭和5年ということなので賑わっていたのは戦前~戦後、昭和40年代あたりまでであろうか。

果たして、昭和30年発行の『全国女性街ガイド』には新居浜について以下の記述が見られる。

名にし負う住友王国だから、全部が厚生施設用。関西から大半が輸入されている。昔は新居浜小女郎といって、味のあったもので、名残りとして「小女郎アメ」が名物になっている。

なるほど。よくわからんw

とは言え、歴史を解き明かしに来たわけではないのでそんなのは別に大したことではない。
琴線に触れる建物や街並みに出会えればそれで十分である。

呑み屋やそれに準ずる業態の小店がやたらと目につく。

だが、ほとんどの店が廃業の憂き目に遭い、そのせいでまち全体が沈んでいる印象を受けた。

南方へ伸びる道の先には、ゴールドラッシュならぬ“カッパーラッシュ”をもたらした別子の山並みが見えた。

泉池町の一角に、ひときわパンチの効いた長屋が建っていて思わず絶句した。

確かに昔は“大都会”と豪語できるぐらいの実力はあったことだろう。

廃業後、一体どれほどの歳月が流れたのだろうか。推し量ることも今となっては難しい。

長屋はL字型をしていた。
何というカラフルでスタイリッシュな構造体だろうか。何十年経ってもまったく色褪せていないそのデザインに思わず唸り声を上げた。

あと何年かしたら失くなっていても不思議ではない状態だったが、案外しぶとく残り続けそうな気もする。個人的には是非とも後者であってほしい。

 

かつて鉱山で栄え、潤ったまち。
あまたの人間を吸い込み、そこで生きる人々が歴史や文化を形成した。

そんな場所が日本には掃いて捨てるほどあるが、そのほとんどが辺鄙な山間部であり、例外なく衰退の一途を辿ってきた。

鉱山が比較的市街地と近接し、しかも港町としての機能も持った新居浜は稀有な場所であると思う。
しかし、そんな新居浜のかつての盛り場もこの有様である。

栄枯盛衰とはなぜかくも残酷なのだろう。

戦後、日本には多様な産業があり、貧しくも必死で働き、皆明るく楽しく生きていた時代だった。誤解も多分に含んでいるかもしれないが、少なくとも筆者はそう考えている。

時代が下り、産業構造が変わり、働き方が変わり、都市部へ人が移動するようになった。
地方は緩やかに疲弊して行き、絡め取られるように都市に熱量を奪われていった。

“こういう場所”を歩くと、最近なぜかよくそんなことを考えるようになった。
昔は街並みの歴史や背景に思いがいたることなんてなかったので、ある意味では成長したのかなと言う気もする。

 

まちは有機体であり、変化をくり返す生き物である。
衰退もひとつの結果であり、ただの歴史の一コマに過ぎないのかもしれない。

それでも、現状を憂い、なんとかしようと奮闘している人たちがどの地域にもいる。
そういう現実を正しく理解し、伝え、そして応援することがとりあえず今の自分に課せられた責務なんじゃないかと、勝手にそんなことを思ったりしている。

まぁ、このブログではそんな大層なことはできてないけれど、まちを知るきっかけぐらいにはなれてるのかな、とは思う。

個人的には、気になる場所があれば是非現地に足を運んでほしい。それなら少しは貢献できそうな気がするから。

[訪問日:2019年12月29日]


コメント

タイトルとURLをコピーしました