惜別の鱗窓。碧南市「衣浦荘跡」(衣浦温泉)を訪ねて

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―2021年、『鱗窓』の愛称で一世を風靡した衣浦温泉の元旅館、「吉文」が静かに逝った。

いや、そういう名前の温泉街があったのも昔の話だ。今はもうない。
世間的には温泉街になる前の特飲街、衣浦荘(きぬうらそう)の名でよく知られている場所でそれは愛知県の碧南市にある。

 

最晩年の、凛とした姿をこの目に焼き付けることができた自分は幸運だったのだろうと思う。
そんな衣浦荘を、写真とともに回想してみたい。

鱗窓の「吉文」(2020年12月)

一体どれほどの人を惹き付け、此処へ足を向かわせて来たのだろうか。
それほどこの地に足跡を残した先人は多く、Web上の情報の多さがそれを裏付けている。

皆、目当てはこの建物だったであろうことは想像に難くない。

衣浦荘は戦時中、海軍将校の慰安所として建設された公娼街だ。

今では目を閉じてもそんな情景は浮かびそうにないが、当時は海に面した風光絶佳な場所ですなわち一大リゾート地を形成していたのである。

そして戦後は特飲街(赤線)として存続を続けたと、ここまではよく聞くストーリーである。

赤線は売防法を境にそれぞれの身の振り方を選ぶことになるが、衣浦荘は温泉街への転換を図った。

温泉を掘り当てたことが起死回生の一手となり、未来への確かな望みを繋いだのである。

衣浦荘は、海沿いのリゾート温泉地として再出発を果たした。
鱗窓の「吉文」が開業したのもこの頃だ。

目の前には海水浴場があり、夜には対岸の知多半島の街明かりを眺めることができたと言う。
関係者たちは皆一様に安堵し、前途洋々であったに違いない。

目の前には衣浦湾の海岸があったはずだが、現在その場所に立つと、国道が横切りその先にも陸地が続いている。

これは、1959(昭和34)年に襲来した伊勢湾台風が契機となって防波堤が築かれ、さらに数年後には工業地帯を造成すべく埋め立てられてしまったからだそうだ。

海岸線が西へ大きく移動し、自慢の眺望を失った衣浦温泉はその後急速に衰退へと転じ、栄華は10年と保たなかった。

旧旅館八千久

何とも皮肉な話である。

転業した赤線としては間違いなく勝ち組であった衣浦荘は、歴史に名を残した台風の ―間接的な被害によって― 終焉を迎えた。

その後は住宅街となり、温泉街時代の旅館、すなわち元の特飲店の建物も時間の流れの中で一軒、また一軒と数を減らしていった。

そんな中、長きに渡り現存し、歴史の語り部であり続けたのが「吉文」と、もう一軒が「丸新」である。

旧旅館「丸新」

ひと目でそれとわかる意匠とベンガラの壁が美しい、界隈で最も状態のよい建物。

建てられたのは約75年前と言うから、戦後すぐぐらいだろう。

特飲店、旅館、ギャラリーと形を変えてきたこの建物。

2021年、つまり昨年に解体されてしまった。

筆者が此処を訪ねる直前、年明けに解体されることが朝日新聞の記事で報じられた。

そこには、2階に小部屋が6部屋ほどあったことや当時は「特殊喫茶」と呼ばれていたことなどが書かれていた。

ほぼ時を同じくして、遺構としては文字通りのツートップであった「吉文」と「丸新」が姿を消した。

かつての特飲街「衣浦荘」、そして衣浦温泉だった名残を示すものはほぼ潰えてしまったと言っていいだろう。
寂しい限りである。

 

最後の生き残りとなったのが、既出の「八千久」とこの「山月」である。
※これを書いている2022年現在では、どちらも現存している模様

この「山月」さん、温泉街になることが決まってから建てたのかと思うぐらい地味な古民家なのだが、唯一目を引いたのが玄関まわりのこの意匠。

それと、建物をつなぐ二階の渡り廊下。

人生にタラレバはないが、もしあと数年早く来れていれば・・という最悪の事態にならなくてよかった。

役目を終えた2棟へ哀悼の意を表し、回想の結びとさせて頂きたいと思う。

[訪問日:2020年12月28日]


コメント

  1. 同行二人 より:

    あれま。ここは未訪でした・・・😢

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