マグロとカツオと黒はんぺんの街「焼津」の赤線跡を歩く

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ぼんやりと空を眺めていた。

懐かしい磯の匂い。記憶と眼の前の景色を重ねてみる。
あぁそうだ。こんな風景だった。

人生なんて偶然の積み重ねだと鼻で笑いながら、映画みたいな人生に憧れていたあの頃。

今思えば、いつも居場所を探してあがいていたような気がする。

その街には、遠い日の自分がいた。
まさか、また此処に帰って来ることになろうとは。

自分にとって「焼津」とはそういう街だった。

年の瀬の早朝、焼津の「弁天地区」というところにあった赤線跡を歩いた。
焼津駅から東へ1kmほど離れた瀬戸川の河口。現在の中港5丁目あたりに指定地はあった。

 

住宅街のなんてことない公園に、どこからでも見えるどでかい津波避難タワーが建っている。
そうだ。こんなのは当時はなかったはずだ。

焼津は全国屈指の漁業の街だ。
カツオやマグロの遠洋漁業の基地として知られ、それは水揚げ金額全国一位という恩恵をこの街にもたらしている。

海の漢たちを相手にする赤線ができたことに「必然」以外の理由はなかったのだろう。

 

焼津とお隣静岡市の間には「大崩海岸」という交通の難所が立ちはだかっている。
断崖絶壁にビビりながら原付で越えたことが、まるで昨日のことにように思い起こされる。

焼津は近いようで遠く、遠いようで近かった。

焼津の赤線跡で象徴的存在とも言える「銀水楼」。

何年も前から“いつ崩れてもおかしくない状態”だというのは知っていたので、消えてしまっていることも覚悟はしていた。
屋根がかなり酷いことになっているが、2022年に入ってからもまだ存命のようだ。

 

この街にはずいぶんとお世話になった。

高草山の笛吹段公園から眺めた夜景。
「エキチカ温泉 くろしお」がまだ「焼津駅前健康センター」だった頃、ツーリング旅のさなかに仮眠室で寝たこと。

すべて何にも代えがたい思い出たちだ。

『銀水樓』の建物には、今も屋号がはっきりと残っていた。

 

一時期、所用で毎週のように焼津に来ていた。
まさか、そこが赤線のあった場所の文字通り目と鼻の先だったなんて、当然その頃の自分には知る由もなかった。

銀水楼は屋根だけでなく、すべてにおいて荒れるに任せていた。
美しい豆タイルの円柱も、ところどころ剥がれ落ちていて見るに耐えない有様だった。

 

運命の悪戯はなぜかくも残酷なのだろうか。
どれほど強く望もうとも、その願いが時空を超えることだけは決して許されない。

転業アパートに見えなくもないこの建物も、元々はそういう役割を担っていたのだろう。
今となっては想像に頼るほかはない。

 

前に進むことは過去から逃げることだと思っていた。
時間でしか解決させることのできなかった未完成な自分が、今ではひどく滑稽だ。

歳を重ねるに連れ、過去とうまく折り合いをつけられるようになった。
少なくとも、何かに過度に期待することや無駄に一喜一憂することはなくなった気がする。

 

あの頃、この先どんな未来を描いていくか何も知らなかった。
いまの自分はその答えを知っている。

失ったものの重さは量れないが、此処へ来て少しだけ昔の自分を取り戻せた気がした。

長く生きていればこんなこともあるのだろう。

 

表題の「黒はんぺん」は静岡のソウルフードだ。
おでんには黒いはんぺんが入っている。コンビニもそうだと聞いたときは絶句した。

此処へ来て初めて出会ったがすぐに好物になり、黒はんぺんをあてに安い発泡酒を飲む時間が何よりの楽しみだった。

年の瀬の早朝、焼津の赤線跡「弁天地区」を歩いた。

漠然と、ここだけは来てはいけないような気がしていた。
遊里を歩き始めてから長い歳月を重ねてきたが、いまだに来たことがなかったのはつまりそういうことだったのかもしれない。

 

かつて海の男たちの欲望にまみれたその街は、消せない過去と慚愧の念に苛まれながら厭世的な時間の海を漂っていた。

ずっとさがしていた居場所を、そっと教えるように。

[訪問日:2020年12月29日]

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