数ある富士山の眺望ポイントの中で、安定した人気を誇るのが由比にある薩埵峠(さったとうげ)。
旧東海道の難所として知られ、それは歌川広重の『東海道五十三次』にありえない断崖絶壁で描かれているところからもうかがい知ることができる。
薩埵峠には展望台が整備され、ご覧のように富士山と駿河湾の絶景を眺めることができる。
旧東海道的には興津宿と由比宿の間にあり、展望台へは興津方面からクルマで上がることができる。
駐車場から展望台までは徒歩2分と言ったところである。
で、このあと由比方面に行きたかったので能天気に旧東海道を下り始めると、どう見てもみかん畑の農道としか思えない道で離合どころかところどころ一台でも厳しいような道幅が続いている。
薩埵峠が興津側からナビゲートされる理由がよくわかった。
万が一対向車が来たら完全に詰む事案であった。
なんとか下りきったところで後方を振り返る。
右手が薩埵峠へ向かう旧東海道。左手へ進むと現東海道(国道1号線)にぶつかる。
この場所に江戸から数えてちょうど40番目の一里塚があった。
一里は約4kmなのでつまり東京から160kmの位置にあたる。
そこは間の宿だった
峠を下りきったところにいきなりこんな伝統的な家屋が立っていて面食らったが、それは序章に過ぎなかった。
ちなみにこれは「藤屋」の屋号で営業していた料理店(茶屋)で、富士山の眺望が優れていることから望嶽亭とも呼ばれていた。
数々の文人墨客がここで休憩したそうだ。
最初、何も知らずにこの旧東海道を走ったところ、藤屋を皮切りに伝統的建造物が次々に現れて
「えっっ!何ここ!!」
ってなったもののあいにく駐車できる場所がなく、引き返すほどの時間的余裕もなかったので泣く泣く諦め、後日満を持してやってきたというわけである。
明治天皇が二度も休憩した、「柏屋」の屋号で営業していた茶屋。
脇本陣でもあった。
このあたりは「西倉沢」という集落で、お隣、東倉沢と合わせて旧東海道の間の宿(あいのしゅく)だった。
薩埵峠という難所を目の前に控えていること、また、江戸を目指して峠を越えた旅人にとって由比宿までは地味に距離がある。
この地に間の宿が必要とされたのは、ある意味で必然だったのだろう。
江戸時代の旅人は、ある人は茶屋や旅籠でひとたびの休息をし、これから始まる峠越えを前に気持ちを入れ直したことであろう。
またある人は、富士山の絶景を手土産に難所「薩埵峠」を越え、安堵とともにこの間の宿で身を休めたのであろう。
そんな情景が浮かんでくるようなイラストが倉沢橋に描かれていた。
道幅は江戸時代から変化がなさそうな感じで、対向車が来ると普通にキツイ。
不思議な意匠の建物。
間の宿の中心だった「川島家」。
大名もここで休憩したので村では本陣と呼ばれていた。
薩埵峠の真下という地理的関係上、旧東海道はやや山側を通っていて東側には1号線、東名高速と続いてすぐに駿河湾が控える。
海と山に挟まれた狭いエリアだが、旧道がもう少し海側を通っていたらそのまま1号線になってもしかしたら集落ごと消えていたかもしれない。
って考えると、よくぞ残ってくれたよなぁ…となること請け合い。
間の宿だからと侮ることなかれ。
古い建物の数は由比宿の比ではなく、倉沢のほうがはるかに見応えがあった。
こんな洋風建築まであるの…。
薩埵峠ほど絶景ではないが、途中に富士山のビュースポットがあった。
これでも十分満足です。えぇ。
西倉沢から東倉沢を経て、次が寺尾という集落。
江戸時代には「寺尾村」だったところで、村の名主だった「小池邸」の建物が残っている。
小池邸の斜向かいにある「由比宿 東海道 あかりの博物館」。
同じく寺尾地区の建物。
昭和5年と書かれた時計台。
正直、これが一番衝撃だった(笑)
寺尾地区の小池邸から薩埵峠の登り口までは1km強で、小池邸は由比駅からもそう遠くはない。
時間と体力に余裕のある方は、由比宿~寺尾~東倉沢~西倉沢まで通しで歩くことをオススメしたい。
体力バカの変態さんには、さらに薩埵峠越えのオプションをセットでどうぞ。
[訪問日:2021年1月2日]
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