港町から宿場町へ。遠州横須賀の古い町並みを歩く

静岡県
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静岡県掛川市の南西、2005年まで大須賀町だったところに古い城下町がある。
戦国時代の1578年に築城、明治の廃城令まで続いた「横須賀城」である。

字面だけだと神奈川のと間違えられるので、こちらはもっぱら『遠州横須賀』と呼ばれる。

城下町は旧街道に沿って展開しているが、街道の南側に面して旧清水家の立派な屋敷がある。
この板塀に昔の門がそのまま残り、そこには「船着門」と書かれていた。

まずここでおや?と思った。

敷地内には、普段一般開放されている立派な庭園がある。
実はこの清水家は江戸時代に廻船問屋を営んでいた豪商だった。

なるほど、確かに大須賀は海に面している。
廻船業が興ったのもそりゃそうか、、と思いながら地図を見ると、海まではずいぶん離れている。。

となると、川が流れている。川湊だったのだろうか。
答えは「No」である。

 

もうずいぶん前から南海地震が危惧されているが、その遠い先祖にあたるのが江戸時代、1707年に発生した宝永地震である。
富士山の宝永大噴火のトリガーになったとも言われる、長い歴史の中でも最大級の地震。

この地震で大規模な地殻変動が発生し、横須賀のあたりは地盤が隆起してしまった。
百聞は一見なので、図で説明しよう。

青い部分が、宝永地震まで海だった場所である。入り江の港が横須賀城下にあったことがお分かりいただけるだろうか。
※左端は途中で切っているが実際はもっと先まで続いている

かつては港町でもあった城下町が、地震で港が陸地となってしまった。
という、なかなかユニークな歴史を持っているのだ。

その後は街道沿いの宿場として栄え、往時を偲ぶ町並みは今なお比較的良好に残っている。

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旧街道を歩く

前置きが長くなったが、ここから旧街道を歩いて行こう。

旧清水家。
庭園の入口は南に100m離れた県道沿いにある。

敷地の広さから、どれほどの豪商だったかがよくわかる。

でも、何故に鬼瓦が日本郵便のマークなんでしょうw

築100年の古民家カフェ。
こういうお店が自宅の近くにあったらいいな~。

元鈴木歯科医院の洋風建築。
木が邪魔でよく見えんw

これは空き家だろうなぁ。
カフェかゲストハウスにしたら結構ニーズありそうな気がするけど。

街灯の「は組」が気になった。何だろう。

酒屋さん?
ご丁寧に「昭和8年の建築です」と書かれていた。

「ろ組」と書かれた屋台蔵を見てピンときた。
地域ごとに「○組」という呼称と屋台を所有しているのだろう。

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町並みのシンボル、割烹旅館「八百甚」

横須賀の町並みへ行った動機でもあった割烹旅館「八百甚」。
超ド級の衝撃を受けること間違いなしの“THE・旅籠”な旅館である。

しかもしっかりと現役で、まぁ古い町並みが好きな人の間では結構有名な旅館なので、泊まられた方もそれなりにいらっしゃるとは思いますが。

素晴らしすぎて永遠に見ていられる…。

横須賀の町並みも、ここに泊まるときに来れたらよかったんだけどね。
このへんがめぐり合わせの悪さと言うか。

 

旧横須賀街道

さて、もうちょっと街道をぶらぶらしていきましょう。

元床屋な看板建築。
サインポールが可愛い。

思っていた以上に古い町家が残っている。

三熊野(みくまの)神社

701年に熊野本宮大社を勧請した「三熊野神社」。

同時に、熊野那智大社と熊野速玉大社もそれぞれ掛川、御前崎に遷座され『遠州の熊野三山』と言われているそうな。

平入り、格子戸を持つ建物が多い。

「笠井屋」の屋号が掛かる。

駒寄せのある町家。

さっきの酒屋に「横須賀の地酒 葵天下」と書かれていたけど、その「葵天下」を醸すのがこちらの遠州山中酒造さん。

Wikipediaによれば、源流は山中正吉という日野商人で、現在富士宮にある富士高砂酒造の前身となる「山中正吉商店」を興した。
その“暖簾分け”にあたるのがこの遠州山中酒造のようだ。

富士高砂酒造さんの酒、ちょうど先月頃に飲んだんだけど・・
ちょっとタイムリーすぎないかw

かつて横須賀城の城下町として栄えた遠州横須賀。
趣ある建物が多く、清水家の庭園や古民家カフェ、そして造り酒屋に旅館「八百甚」。

城好きな方は横須賀城跡を見に行ってもいいだろうし、個人的には結構楽しめる要素が多いと感じた町並みだった。

[訪問日:2021年1月3日]


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