後半も引き続き、岐阜市にあった青線、『国際園』の町並みを見て行く。
外装はずいぶんキレイに見えるが、おそらく当時はその手の店だったに違いない。
まず三階建ての時点で真っ先に疑われるよねw
向かいの建物も、一発でソレとわかる佇まい。
ってか今気づいたけど、左側の建物も一部じゃないか。おそらく一階でつながってるよなこれ。
金津園と対立
ここらでもう少し歴史の話をすると、最初移転候補地に挙がったのは実はここではなく、長住町(現在の名鉄岐阜駅付近)だった。
これには賛否両論巻き起こり、特に金津園の業者たちが猛反対したらしい。理由は単純で、候補地が駅の表側にあたるため、駅の裏手で営業していた自分らにとって大打撃となるからである。
名鉄岐阜駅周辺と言えば、今では駅前で最も栄えているところだけに、もし国際園がそこに移転していたら今頃街全体が再開発で洗い流されて消滅していたかもしれない。
しかし、皮肉なことに、現国際園跡は金津園から見て線路をまたいで反対側という位置関係にあたる。
運命のいたずらとも言うべきか、地層のように幾重にも重なった歴史が紡いだ帰結とは言え、たられば論を持ち出すならばこの街が持つ物語には独特の深みがあって面白い。
これまたずいぶんと味のある建物だ。
そもそもが低かった期待値を大いに裏切る形で古い建物がよく残っている。成立が遅かったことが奏功したと言えようか。
トタンがあり得ない錆び方をして変色っぷりが理解の範疇を超えているの図。
いかにも「いつでも旅館に転業できまっせ」的な佇まい。
売防法施行後の後日談は知る由もないが、現在では住宅として静かに余生を送っていた。
そう言えば豆タイルを持つ遺構はほぼ皆無だった気がする。青線発祥だからであろうか。
それとも、これも転用を見越してのことだったのか。
「メンズライフ」
確かにメンズのための場所だったことに異議を唱える者はいなそうだ。
アールを描いた庇が、玉の井のカフェー街を彷彿とさせる。
個人的には、アールの庇はかなり好きである。たぶん100%の確率でカメラに収めている気がする。
三軒とも怪しさ満点。真ん中なんて不自然に三階建てだし。
というわけで、戦後闇市から青線に移行し、移転問題で一世を風靡した『国際園』の跡地をじっくりと見てきた。
混沌とした町並みは今なお健在だったが、正直いつまで生存できるかこればかりは予見できない。見学希望者はお早めにどうぞ。
[訪問日:2014年8月24日]
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