富山県西部の砺波平野を縦断する盲腸線、JR城端線の終端にあたる「城端(じょうはな)」は絹織物の生産で栄えた町である。
今なお残る古い町並みが風情を醸し、「越中の小京都」とも呼ばれるそのまちを歩いたのは、まるで親のかたきのように激しく雨が降り続くとある夏の日だった。
かつては城端町だったが、合併を経て今では「南砺(なんと)市」の一部に収まっている。
蛇足だが、「五箇山」があるのもこの南砺市である。
そんなわけでここから北陸遠征二日目となる。
写真でもはっきりわかるこの常軌を逸した雨の降り方はどうであろう。
二日目にしてすでに『帰りたい』を連呼しまくるほど気持ちが折れていた筆者の前に姿を見せたのが古刹・城端別院「善徳寺」。
城端は元々この寺院の門前町として発展した歴史を持っている。
善徳寺から南下したところが「今町通り」。
豪商野村家の土蔵4棟が連続して立ち並ぶ圧巻の光景は城端を代表する風景のひとつである。
土蔵と言ってもいわゆる白漆喰の“白壁土蔵”ではなく、石垣を築いて土台から屋根下までを下見板張りとし、白漆喰は屋根下と窓枠にしか使っていない独特な建築物である。
建てられたのは明治36年とのことだ。
お次は荒町通りへ。
こちらは「竹田山」と呼ばれる曳山の倉庫。
このあたりはかつて花街だったそうで、なるほど石畳といい幅狭の路地といい雰囲気がよく残っている。
かつて「米田楼」と称する料理屋だった「荒町庵」(登録有形文化財)。
明治後期の建築で、空き家となってボロボロになっていたのを平成28年に有志が改修し復活させたと言うエピソードを持つ。
続いて国道の東側へ。
国道は道路の拡幅と再開発が行われた関係で古い建物はほとんど取り壊されてしまったそうだ。
城端は二本の川に挟まれた段丘上に位置する高台のまちで、このあたりからはそれがよくわかった。
川島通り
もうひとつ、城端を代表する風景がこの川島通り。
京都西陣の老舗「川島織物」の創業者、川島甚兵衛の出身地である。
この絹織工場の渡り廊下が実にイイ。
雨を喰らわない安全地帯から撮影。
聞くところによるとこの工場の裏手、川向こうに三角屋根の絹織工場が連なる風景があるとのことで探しに行ってみたが、あまりの雨でついに傘から雨漏りするようになってしまい早々に諦めて引き換えした。
もう一度言う。本気で帰りたい。。
宗林寺。ここの境内に初代川島甚兵衛の墓があるそうな。
坡場の坂(はばのさか)
石垣・瓦屋根・縦格子の町屋が立ち並ぶ「坡場の坂」。
旧五箇山街道の本通りで、今もその名残をとどめるここもまた城端を代表する風景である。
こちらはかつての造り醤油屋。
目の前にはレンガ造りの培菌室。
なるほど。ここで麹を育ててたわけですな。
で、これが坡場の坂。石垣の風情が良き。
この通り、旧五箇山街道の名前のとおり、五箇山と加賀を結ぶ交易の拠点となっていた。
財を成した城端商人の商家や蔵がこの通りに集まっているというわけ。
豪雪地帯である五箇山は冬は交通が閉ざされ陸の孤島となるため、生糸などの産物を担保に生活物資や金銭を城端商人から前借りしていた。
この貸付専門の商人は「判方(はんがた)」と呼ばれ、その約半数がこの通りに店を構えていたと言う。
格子と袖壁が特徴的な「西川外太郎旧宅」。
昭和42年に地域に寄付され、現在は公民館となっている。
出桁造りと格子の町家。
坡場の坂を下りきって振り返ったところ。
まちなかを歩いてるとちょこちょこ曳山の倉庫を見かける城端には「城端曳山祭」なるイベントがあり、これがなんと!ユネスコの無形文化遺産にも登録されているほど有名。
そんな城端の曳山について学びたければこちらの「城端曳山会館」に立ち寄ろう。
今町通りの土蔵群のやや南寄りに、登録有形文化財の元銭湯「桂湯」がある。
銅板がすごい…。
昭和5年頃建築、昭和37年に改築されているが銭湯自体は明治20(1887)年から平成16(2004)年まで約120年も続いたそうだ。
で、玄関に掲げてある「十八才と八十一才のちがい」を解説しているコイツに人目も憚らず爆笑してしまった(笑)
ここらで越中の小京都「城端」の散策はお開き。
雨脚はまったく弱まる気配がなく、憂鬱な気持ちを抱えたまま次なる町へと向かった。
[訪問日:2021年8月13日]
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