吉原栄枯盛衰記 ~日本最大の廓があった街~

東京都
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吉原遊郭の成立は江戸時代初期の1617年(元和3年)。庄司甚右衛門という遊女屋の主人が幕府に遊郭設置の請願をし、5年後にようやく許可が下りた。
このときの指定地が現在の人形町あたり。後に現在の場所に移転することになるが、そんな由縁で俗に移転前を元吉原、移転後を新吉原と呼ぶ。

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『遊郭をみる』より引用。確かに新吉原と書かれている。明治時代頃の仲之町通りであろうか。

1657年(明暦3年)に誕生した新吉原。京町1,2丁目、江戸町1,2丁目、仲之町、揚屋町、角町に分けられた区画や町名は、現在でも通りの名前としてそのまま残っている。
また、整然と区割りされた遊郭が地図上45度くらい斜めってるのは、客が北枕にならないように配慮されたためである。

当時は廓を囲うように「お歯黒どぶ」が流れ、出入り口は大門のみだったのがいつしかどぶは埋められてしまい、今ではその名残は段差だけとなってしまっている。これについてはまたのちほど。

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『花街・色街・艶な街』から引用させてもらった昭和28年の吉原の様子。

吉原は明治44年の大火、関東大震災、そして東京大空襲と大規模なものだけでも三度の壊滅を経験している。
そのたびに不死鳥のごとく蘇り連綿と続く歴史を紡いできたわけであるが、つまるところ現在の吉原の町並みはすべて戦後にできたものということになる。

戦後は赤線に移行し、昭和33年(1958年)の売防法完全施行とともに約350年続いた公娼地としての歴史が潰え、今では特殊なお風呂屋さんが150軒近く軒を連ねる賑やかな街となっている。

当ブログは遊ぶための案内サイトではないので現在の町並みは華麗に割愛し、今なお僅かに残る赤線時代の遺構を探して歩いていくことにする。

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花園通り

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いきなり仲之町通りをゴールまで突っ切ってしまったので、中途半端ながら南東側の花園通りを土手通り方面に向かって戻ることにする。
ここがかつてのお歯黒どぶ跡で、最下級の遊女屋が並ぶ「羅生門河岸」と呼ばれていたあたりとなる。

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通りにある医院、その診療科目に注目。
街の景色はすっかり変わってしまえど、ここで行われている営みは今も昔も変わらないことを実感。

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角町通りを望む。通りは風情もへったくれもないので入口だけでもうお腹いっぱい。先へ進もう。

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ちなみに、仲之町通り側には町名の由来を記した看板が設置されている。
角町は元吉原時代からあった地名で、元吉原では江戸町1,2丁目、京町1,2丁目、角町の五つの町があり吉原五町と呼ばれていた。その中でもっとも後にできたのが角町となる。

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江戸町通り(江戸町二丁目)を望む。よくよく見ると右側(東側)にはお風呂屋さんがない。
これは昭和41年の風営法改正で営業禁止区域に指定されたからで、江戸町通りの東半分、京町の全域がこれに該当する。

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土手通りまで戻ったので、今度は衣紋坂の先を右に曲がってみる。かつてお歯黒どぶが流れていた通りがここだ。

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吉原公園

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角海老楼、稲本楼とともに吉原遊郭3トップを形成した大文字楼があった場所。今では吉原公園となっている。
道路と公園に段差が生じているが、これこそがかつてお歯黒どぶが流れていた名残に他ならない。

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一本隣、江戸町通りへ抜ける細い路地。
このどぶがいつ暗渠になったかは定かではないが、先ほど引用した昭和28年の地図ではもう「跡」となっているので、戦災からの復興過程でなくなったのだろうか。

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さて、今度は衣紋坂の先を左へ曲がってみる。江戸町通りの東側に、並走する細い路地が二本ある。

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伏見通りのカフェー建築

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先ほど、江戸町通りの東側は営業禁止区域に指定されたと書いたが、まさにこれによって戦後のカフェー建築が解体を免れることになったのがこの地域なのだ。
二本の路地のうち江戸町通りに近いほう、通称「伏見通り」にそれは点在している。

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お、あったあった。
正直なところ、吉原と言えば品のないネオン街のイメージしかなかったので、赤線時代の遺構が残っていること自体がそもそも意外だった。
というわけで、本当に面白いのはここからです。

(3ページ目へ続く)

コメント

  1. maru より:

    「遊郭の世界」という昭和51年発行の本がございまして
    著者の中村芝鶴さんは、この大文字楼の関係者です。
    記述によると八文字という独特な歩き方も
    いろいろ型があるようで、店によっても違っていたようです。

    • machii.narufumi より:

      >maruさん
      昭和51年ですか・・しかし興味深そうな本です。
      八文字は「外」と「内」があるようですね。吉原は外で、京都が内だとか。えぇ、それ以上のことはよくわかりませんが(笑)

      あ、コメントはイタズラ防止で承認制にしているんですm(__)m

  2. min min より:

    芳町…他界した父の除籍謄本から、この辺りを本籍とする女性の養子であったことがわかりました。自分の旧姓であったにも関わらず、血縁関係のない女性。父はその方について語ることは一度もありませんでした。
    戸籍上だけだったのか…実際に育てられることはなかったのか…
    悲しい物語しか思い浮かびません。

    26年間私の本籍地であったこの地のことを少しづつ調べるつもりです。
    参考にさせていただきます!

    • machii.narufumi より:

      きっとお父様には、身内にも語ることのできない苦しい胸の内があったのではないでしょうか。
      私の拙い文章が何かの足しになるのであれば嬉しい限りです。
      大変だと思いますが、頑張ってください!

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