現代の赤線地帯とも言うべき関西の「新地」。
大阪五新地。宝山寺(生駒)新地。かんなみ新地。そして消えた七条新地(五条楽園)。
これまで色々な場所を訪ね記事にしてきたが、ひとつだけまだ行けてない場所があった。
昨年10月。欠けた最後のピースを埋めるべく、「近畿のおまけ」こと南国・和歌山へと向かった。
和歌山、天王新地。好き者には説明不要なほどよく知られている場所であろう。
阪和線の「紀伊中ノ島駅」、紀勢本線の「紀和駅」のちょうど中間あたり、国道24号線に面したところに位置する。
国道に対して「コ」の字型をしており、つまり天王新地には二ヶ所のゲートがある。だが、そのうちのひとつは「一体どうしてこうなったのか」と嘆きたくなるほどに今では無残な姿をさらしていた。
天…理組合…???
ちょっと暗号解読班呼んでくる(´・ω・`)
ゲートの先は…
結界の内部はゆるい下り坂になっていた。
この得も言われぬ傾斜に実に妙味があり、ほのかな後ろめたさを倍加させる力を宿しているように感じる。
天王新地の成り立ちはよくわからないが、和歌山市には遊郭の設置が認められていなかったことから少なくとも元遊郭ではなく、玉の井のような私娼窟だったのではないかと思う。
昭和30年の『全国女性街ガイド』には65軒という記載が見られるが、結論から言うと現在営業しているのは3~4軒しかない。
あとは、よくて人が住んでいるが大部分は空き家であったり取り壊さたりと色街としては末期的な様相を呈している。
こと東側の通りにいたっては、数年前までは屋号や建物がまだ残っていたようであるが、真新しい訪問介護ステーションの建物とその駐車場が昔日の面影を完全に奪い取っていた。
ぽっかりと空いた空き地からは、西側の通りに立ち並ぶ料亭を裏側から眺めることができる。しかしどう見てもほったて小屋にしか見えない。不夜城のなれの果てにしてはあまりに残酷である。
突き当たりには、涙目で「なぜ僕だけ残されたの?」とでも言いたげなあばら家が一軒だけ打ち棄てられていた。一緒に壊してやればよかったのに・・可哀想に。
右折し、西側の通りへ向かう。
この先はまだ生きている。警戒心を帯びた生ぬるい空気が頬を撫でる。気を引き締めなければやられる。
事件はそのとき起こった。
突然ラスボスやり手婆が目の前に現れたのである。
(やっべ・・)
(なるほど…古い建物が好きなヤツに仕立てたいわけか。何も知らない人に変なこと喋るわけにいかないもんな)
(とりあえずここは乗っておこう。何も知らないふりをして穏便にやり過ごすのがよさそうだ)
(よし・・いなくなった)
よし撮影再開(・∀・)ww
西側の通りはまだ屋号を掲げている店が数軒。それは営業中であることを示唆しているのかと思いきや、ただ一言「休業中」と書かれた紙が貼ってある料亭もあった。
二階の窓には板が打ち付けられ、文字通り外界と隔絶された元料亭の姿もあった。噂に違わず天王新地は風前の灯だということがよくわかった。
さて、やり手婆が教えてくれたほうに行ってみたところ、確かにこっちにも元料亭のような見てくれの建物がちらほら遺っていた。
元々「コ」の字の路地しか歩くつもりがなかったので感謝しなければいけない。
ちなみにここはもう少し西側にある通りである。これなどがまさにそうで、昔はここも新地の範囲だったのではないかと思える佇まいをしている。
この不自然に長い長屋。均等に部屋が並んでいるような窓の配置。Googleマップではアパートになっているので、十中八九転業の類ではないかと思う。
なるほど、やり手婆の言ったことはその場しのぎではなかったようだ。確かに味わい深い町並みが付近には残っていた。
当初の目的も達成し、ある程度満足したのでそろそろお暇することにしよう。
和歌山、天王新地。そこには砂上の楼閣のごとき壊滅寸前の色街があった。
散策中、30代ぐらいの男が料亭から出てくるところを見かけたので、意外にもまだニーズはあるのかもしれない。
いつなくなってしまうか・・こればっかりはわからない。見学希望者は早目に訪れておきたいところである。
[訪問日:2016年10月8日]
コメント
う~ん、味わい深い体験でしたね。
後、数年で朽ち果てそうですね。
そうなんです。もしかしたらあのシマは建物の寿命で終幕を迎えるかも・・
まだ やってるよ 令和3年3月26日
中村に 若い娘がいましたよ
遊びに行かないと言う選択肢は無いよね…