昭和20年3月10日の東京大空襲で、吉原は文字通り壊滅。
焼け残った鉄筋の建物7軒で、商売再開にこぎ着けたのが終戦10日前だったと言う。
戦後、今度はその建物がRAAの慰安施設となり、「OFF LIMITS」となるまでの一年足らずの間進駐軍向けの店として営業。
その後は赤線となり、カフェー建築が立ち並ぶ特飲街として昭和33年(1958年)の売防法完全施行まで存続。
ざっくり歴史を俯瞰するとこのような流れとなる。
引き続き伏見通りのカフェー建築
というわけで、引き続き江戸町二丁目の東側、伏見通りに点在する遺構たちを見ていきたい。
こちらの転業アパートは「大和田荘」と書かれていた。見事なまでのカフェー建築。よくぞ残っていてくれたという思いである。
※現存セズ
その少し先で見つけたこちらの遺構は「マスミ」という屋号が書かれていたのが見て取れる。
前頁で引用した昭和28年の地図上、同じ場所には「満寿美」というカフェー。
うん、完全に一致w
初めて吉原に足を踏み入れたのが確か2012年頃で、このときは遊郭や赤線なんてまったく知らなかったので街の上っ面だけ眺めて「ほえ~すげ~」なんて思っていたんですが、いざ歴史やら何やら知ってから歩くと全然違った景色に見えるもんなんだなと。
地図上、「岩渕荘」と書いてある転業アパート。これも赤線跡を歩く人たちの間では説明する必要もないほど有名な遺構。
通りに面したところには、女給が客を呼びこむためにあったとしか思えない窓。
戦前玉の井みたいに、ここから「ちょいとちょいと~」なんて声をかけていたんだろうか。
戦後、赤線で働いていた女性は戦争未亡人をはじめ生活困窮者が多く、病気の旦那と子どもを養うために、なんてケースもざらにあった。文字通り、戦争で何もかもを失ったわけである。
借金のカタに売られてきた遊郭時代より幾分マシと思えるが、哀しい理由で体を売らなければいけなかったのは同じ。平和な現代では考えられない時代であるし、同時に色んなことを考えさせられる。
当時の情景を少しでも知る手がかりとして、溝口健二監督の映画『赤線地帯』がある。
若干重い内容ですが、興味のある方は是非ご鑑賞ください。
岩渕荘のお隣が「モリヤ荘」。
「赤線跡を歩く」にも載っているのでこちらもまた有名な建物ではないかと。
そしてこちらも、「マスミ」同様カフェー時代の屋号「モリヤ」がそのままアパート名となっている。
カーキ色のドアがなんとも艶めかしい。
※モリヤ荘や2019年頃に解体されました
二棟並ぶとなかなかの迫力。
なんつーか、ちょっとやんごとないレベルw
伏見通りの散策はここまで。最後に、少し離れた場所にある遺構を紹介します。
ちょっと長くなりましたが、次が最後のページです。
(4ページ目へ続く)
コメント
「遊郭の世界」という昭和51年発行の本がございまして
著者の中村芝鶴さんは、この大文字楼の関係者です。
記述によると八文字という独特な歩き方も
いろいろ型があるようで、店によっても違っていたようです。
>maruさん
昭和51年ですか・・しかし興味深そうな本です。
八文字は「外」と「内」があるようですね。吉原は外で、京都が内だとか。えぇ、それ以上のことはよくわかりませんが(笑)
あ、コメントはイタズラ防止で承認制にしているんですm(__)m
芳町…他界した父の除籍謄本から、この辺りを本籍とする女性の養子であったことがわかりました。自分の旧姓であったにも関わらず、血縁関係のない女性。父はその方について語ることは一度もありませんでした。
戸籍上だけだったのか…実際に育てられることはなかったのか…
悲しい物語しか思い浮かびません。
26年間私の本籍地であったこの地のことを少しづつ調べるつもりです。
参考にさせていただきます!
きっとお父様には、身内にも語ることのできない苦しい胸の内があったのではないでしょうか。
私の拙い文章が何かの足しになるのであれば嬉しい限りです。
大変だと思いますが、頑張ってください!