あの不夜城は今…八戸・小中野新地を歩く

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新むつ旅館に泊まった翌朝、かつて「小中野新地」として殷賑を極めた界隈を歩いてみることにした。

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本当はチェックイン後に歩くつもりだったのを、雨がしとしと降りしきるので億劫になってやめてしまった。
まぁ、結局翌朝も雨だったんですがね(-д-。)

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新地

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まず、新むつ旅館がある通りを歩いてみる。昔の地名はそのまんま「新地」である。
半分だけ往時の名残をとどめる個人宅があった。トランスフォーマーみたい・・

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新むつの女将さん曰くこの通りに25軒あったそうであるが、もはやそんな栄華も歴史の彼方に葬られてしまっていた。かつての紅灯街の灯はとうに消えてしまっている。

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小中野新地はこのあと向かう「浦町」が発祥で、この新地は、あまりに繁盛しすぎた結果浦町だけでは足りなくなり、あとから作った新開地だったそうである。

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やがてT字路にぶつかるので右折するとこんな四ツ辻に出る。
ここが小中野新地のちょうど中央付近である。浦町は向かって右手、二本の路地が並行する新地は向かって左手となる。

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二本のうちもう一本の路地。新むつ旅館がある路地の東側にあたる。
結論から言えばここにはもう何も残っていなかった。

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微かな名残がこれ。電柱に「新地線」の文字。浦町のほうには「浦町枝線」とあった。
ちなみに現在の地名はいずれも「八戸市小中野」である。

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浦町

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浦町のほうは不自然に広い路地が街の血筋を雄弁に物語っていた。
しかしどっからどう見ても絶望的に寂れている。

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八戸の遊郭の起源は徳川時代まで遡る。
太平洋を航行する船が近くの港に停泊した際、船夫たちの洗濯や身の回りの世話をした女が私娼となり、その結果遊郭が成立したという。貸座敷39軒、娼妓160人ほどいたそうである。(『全国遊廓案内』より)

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無駄に幅の広い路地は、途中で二度クランクする。これまた元遊郭の特徴をよく現している。

小中野新地にはまた花街としての側面もあり、料理屋や見番もあったという。
最盛期は明治~大正頃で、芸妓は120人以上、貸座敷も50軒はあり文字通り不夜城の様相を呈していたそうである。

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旅館が一軒。転業旅館だろうか。しかしどうひいき目に見ても廃業しているようにしか見えない。
兵どもが夢の跡。

(2ページ目へ続く)

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