かつて「浜町川」という川があった。今はもうない。
現在で言う、都営新宿線の岩本町駅あたりから首都高速の箱崎JCTあたりまで、神田川から分かれ南東に向かい、最終的に隅田川に注ぎこむ。それが浜町川である。
地下に眠る敗戦の記憶
そしてその水路は、空襲で焦土と化した街の瓦礫や残土の捨て場となり埋められてしまった。言わば戦争の犠牲者なのである。
この日、歴史散歩と銘打ってその暗渠となった浜町川の跡を歩いてきた。
日本橋久松町あたり。今立っている場所が浜町川の跡。
とても中央区とは思えないレトロな雰囲気が漂う。
この浜町川跡は、地図を見るとその存在がよく判る。
暗渠に沿って両サイドに建物が立ち並び、中央が細い路地となっている。通路としての役割であろう。
こんな感じの、戦後間もない頃に建てられたであろうバラックがよく残っている。
一方で、解体されコインパーキングになっている場所も比較的よく目につく。
そしてこの場合は大抵、バラックの裏側が丸見えという状態になっている。
ここの地中深くには空襲で焼けた瓦礫が眠っているのか・・
歴史の重さを感じずにはいられない。
川が埋められたとき、長さ200mにも及ぶ空き地ができたというが、そのとき、都によってそこに強制移転させられた人たちがいた。
それは、日本橋や人形町で露店を営んでいた人たちである。
そして出来上がったのが、バラック店舗が立ち並ぶ「問屋橋商店街」。昭和26年のことである。
かつて飲み屋が軒を連ね、夜ともなれば遊び人が押しかけ妖しい雰囲気を醸し出すこの場所は「泣く子も黙る問屋橋」と言われていたという。
今ではもう営業している店はなく、そこには往年の姿はない。
無理もない・・60年も前の話なのだ。
問屋橋商店街の遠景。
狭い間口に抗うように、上へ上へと増築していった様子がよく分かる。
それにしても・・付近の景観とあまりにもマッチしていない。
久松警察署前の児童公園。この一角から南にはもう戦後をの名残をとどめるものはなさそうであった。
正直なところ、さすがに再開発に呑まれてもう何も残ってないだろうな・・ぐらいのノリで出かけたので、ずいぶんと面食らってしまった。
何も都内に限ったことではないが、いわゆる「戦後」の象徴でもあるバラック建築は、今の時代、非常に大きな存在意義がある気がする。
壊すのは簡単だけど、その代償の大きさも考えなければいけないのではないだろうか。
そんな風に思えてならない。
[訪問日:2015年8月30日]
〒103-0007 東京都中央区日本橋浜町2丁目59−3 浜町駅
コメント
去年だったかな?元旦に同志と日本橋界隈を探索しようとして
偶然そこにたどり着きました。
同志と息をのんで、良い飲み屋街だと思いましたよ。
<問屋橋>というですか!
あそこに偶然たどり着くのは結構奇跡だと思いますよ(笑)
まぁ、‘元’飲み屋街ですけどね。まだまだ残っていてもらいたいですよね!