渋谷・百軒店 ~「若者の街」のルーツを辿る~

東京都
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渋谷が持つイメージのひとつに「若者の街」というのがある。109しかりPARCOしかりセンター街しかり、確かに10代~20代の若者たちでごった返している。

もちろんそう呼ばれるようになったことには相応の理由がある。それは「若者の街」の原点、百軒店(ひゃっけんだな)の存在を抜きにしては語れない。

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朝の道玄坂というのはとにかく汚い。ゴミが散乱してカラスが群がる光景が標準仕様で、毎朝うんざりしながら通勤していたことはもはや記憶から消し去りたい事案でしかない。

そんな坂の途中、ひときわ目につく「しぶや百軒店」のアーチが居丈高に立ちはだかっている。

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アーチの先を一瞥すると、名だたるストリップ劇場の中でも無類の安定感を誇る「渋谷道頓堀劇場」が見える。
百軒店は、この一種近寄りがたい雰囲気の路地の先にある。

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その先には無料案内所まで出てくる始末で、そもそも周囲をホテル街に包囲されているこのエリア。とても散歩がてら歩きたくなるような風情はゼロである。

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関東大震災で誕生した街

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それでも構わずに進むとやがて「日」の字型をした路地がある。そこが百軒店。
そしてこれが現在の百軒店の代名詞とも言える喫茶ライオン。昭和元年創業。

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路地の形からして、明確な意志によって誕生したことは明らかである百軒店は、関東大震災の復興過程でできた街である。コクドの前身であるデベロッパーが、有名店や老舗を下町から誘致して百貨店街を作ろうとしたことに端を発する。

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やがて飲食店やカフェー、さらには映画館などの娯楽施設が集まる街に姿を変え、「娯楽の中心」として空前の賑わいを見せる場所になっていったという。

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しかし今ではもうその役目を終え、往時の名残をとどめる少しの建物と変わらない路地が残るのみである。
歩くとどこか懐かしい感じがしてずいぶん心地がいい。

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下品なネオンサインと欲望の街に包囲されながらも、街の発展に寄与したという矜持が今の百軒店を支えているようにも見える。
その証拠に、今でもどこか個性的でオシャレな店が多く、意図して雰囲気を損なわないようにしているのではないかという気がした。

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歴史を知らなければ大した発見はなかったかもしれないけど、軽く調べてから行ったおかげで大いなる収穫があった。やはり予習は大事である。

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角にある「千代田稲荷神社」は、商売繁盛の神様としてここが誕生するときに宮益坂から引っ越してきたそうである。目の前に商店街の事務所があるというのもずいぶんわかりやすい。

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実は百軒店も、すでにピンクタウンの包囲網に侵され始めており、一角にはアダルトグッズを扱う店が営業していた。なんてこった。

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昭和26年創業のムルギー。「印度料理」と書かれた入口が歴史を感じさせる。
ちなみに昭和30年より前にオープンして今も残る店は、ライオンとこのムルギーのみである。

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一番南側の路地は完全に陥落しており、「ザ・道玄坂」の様相を呈していた。
こんな路地で一人佇む女性がいたら、それはもう“パパ活の類”と勘ぐられても何も文句は言えないであろう。

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なんか反対側のアーチに見覚えがあったので記憶をたどってみたら、角にあったつけ麺屋に以前入ったことがあるのを思い出した。もう何年も前の話だけど。

けど、今はもう閉店し串カツ屋になっていた。

万物は流転する。周囲の街並みはすっかり様変わりしてしまった。もうすぐ100年を迎える百軒店も、時代とともに少しずつ変わってきたことだけは確かである。

これからどう変わっていくのだろう。20年ぐらい経ったらもう一度歩いてみたいな、と思いながら帰路についた。

[訪問日:2016年4月22日]

コメント

  1. mura より:

    machii.narufumi様
    百軒店「ライオン」の裏手、写真にもちょこっと写っている白いマンション。十数年近く前までは、バーや小料理店等の木造バラックが密集しており、かつての百軒店を思わせる最後のエリアでしたねぇ。いつのまにか更地になったのはビックリした記憶があります。

    • machii.narufumi より:

      なんと、木造バラックがあったんですか。そういうのをいつも探し求めているんですけどねぇ。道玄坂沿いの有名なバラック群も数年前に壊されてしまいましたね。もう都心じゃそういうのを探すのは難しいんじゃないかと思います。

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