四番町スクエアを後にし、その足で向かったのは袋町遊郭跡。
やはり城下町に遊里はつきものである。
袋町という町名は現存せず、花しょうぶ通りと芹川に囲まれた河原二丁目の一角がかつての遊里である。
その名は、一帯が狭い袋小路のような土地であることに由来するのだという。
おなじみ『全国遊廓案内』には「彦根町遊廓」の名で紹介されている。
創立は明治9年で目下貸座敷は65軒あって、娼妓は約85人いるが、福岡、佐賀、埼玉県の女が多い。
とある。城下町に散在していた遊女屋が集められてつくられたというよく聞く生い立ちを持つ。
色濃く残る遊里の雰囲気
結界の中へと足を踏み入れると、色街情緒が色濃く残る町並みが訪れ人を待ち受けていた。
細い路地、大柄な木造家屋、弁柄格子・透かし彫りなどの艶やかな意匠、と挙げればキリがない。
昭和4年時点で娼妓約80人、芸妓約100人、舞妓約20人がいたという袋町。その史実が示すとおり、建物を観察すると妓楼以外にも花街の名残と思われるものが比較的多く残されていた。
戦後はどうだったのだろうか。昭和30年の『全国女性街ガイド』によれば
ちょんまげ時代から建っている袋町遊廓に十五、六軒。ここは泊まりが安く700円から。最近は駅前の青線にくわれ生気なし。
昭和初期には69軒だったと言うから、ずいぶん劇的な寂れ方である。
とは言え、袋町は今でも彦根屈指の盛り場なのである。スナックなどに転用された建物もあるし、遺構たちは総じてまだ元気そうだ。
特に遊郭特有の弁柄格子がここまで残っている場所は記憶をたどっても他になかったと思う。これだけでも見に来る価値は大いにある。
花街情緒を醸し出す細い路地も健在。
駅から遠いことが奏功したのか、今もなお再開発とは無縁の町並みをとどめている。
これが彦根城の近くなど、観光客の行動範囲内であったらとっくに行政にロックオンされていたに違いない。
この丁字路がお世辞抜きで最も風情のある一角だった。
斜め扉の何とも魅惑的な物件は、もう長い間固く扉を閉ざしたままのようであった。
これが開く日がいつか訪れることを願うばかりである。
袋町の名が残る公民館に隣り合う稲荷神社。と、これを見た瞬間強烈なデジャヴに襲われた・・
そうだ、思い出した。これは藤沢の辰巳新地と同じなんだ。
その少し先には小料理店の鑑札が残っていた。なかなか見どころの多い街だ。
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