かつて神崎新地があった尼崎の戸ノ内町は、そのもっと前には毛斯綸紡織(もすりんぼうしょく)という会社の工場があった。
その名残は、今なお名前としていくつか残っている。
ちなみに、モスリンという怪獣みたいな名前はウール素材の一種。毛斯綸紡織は今で言うアパレルメーカーである。
毛斯綸紡織は、戸ノ内の南側にモスリン大橋という橋を架けて、当時の園田村に寄付をしている。
そのモスリン橋は今でも残っているし、橋の袂の交番はそのまんま「モスリン橋交番」である。
モスリン橋から神崎川を望む。
新地を示す石碑
一周りして再び新地に戻ってきた。外れのほうに、色街につきものの稲荷神社がひっそりと祀られていた。
その境内で、この地に確かに神崎新地があったという動かぬ証拠を見つけた。
いや、見つけたわけじゃないな。最初から分かってて来てるからねw
神社の横にも、それっぽい建物があった。断定はできないけどなんか怪しい。
こっち(左側ね)はほぼ間違いなさそう。特徴的な二階の手すりは、他の遺構たちと共通している。
すっかり空き家になっているこれもクロじゃないかな。側面から二階を見たら疑いが確信に変わった。
神崎新地はここまで。もう一ヶ所行きたいところがあったので、戸ノ内をあとにする。
神崎の遊女伝説と遊女塚
市史によれば、奈良時代の終わりに神崎川と淀川をつなぐ水路が造られたことで、尼崎は水運の要衝として栄えていくことになったそうである。
今の神崎町あたりには船泊がつくられ、どこからともなく遊女たちが集まってきて『天下第一の楽地』とまで呼ばれたという。
この神崎の遊女には5人が川に身投げをしたという悲しい伝説があり、彼女たちを供養するための塚が同地にひっそりと残っている。
一応案内板もあるんだけど、字が小さくて読めないと思うのであとは現地でご覧ください。
場所は関西ペイントの前あたり。公園の一角にあるので、車などで行くと注意してないとうっかり通り過ぎてしまうぐらいわかりにくい。
「遊女塚」と書かれた石碑は、昭和46年8月に建立されたらしい。割と新しいのね。
鎌倉時代の話とは言え、天下第一とまで言われた神崎の遊郭。実際のところ、戸ノ内は川向こうになるので、「神崎新地」の名はこの伝説にあやかって付けられたのではないかと思えてくる。
まぁ…どうでもいいか。もう神崎新地は滅んだのだ。蘇る日が来ることは二度とない。
そんなことを思いながら遊女塚を後にした。
[訪問日:2016年8月21日]
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