御手洗があった大崎下島の上にあるのが、造船で成り立つ人口8,000人弱の「大崎上島」。
大崎下島と違い、こちらはどう頑張っても陸路では行けない。一般的には今治か竹原からフェリーに乗ることになるが、大崎下島からもアクセスできる。
大長?小長?
御手洗の近くに「小長(おちょう)港」という立派なフェリーターミナルがあったのでそこに行くも、乗ろうとしていた船の案内がどこにもない。
??
正月だから運休?それとも便がなくなった?
係員もいないので誰にも聞けないまましばらく混乱し、船の時間が危うくなってきた頃にようやく自己解決した。
節子!それ「小長」やない、「大長」や!
車で通ってたはずなのに、あまりにも港っぽくなくてまったく気づいてなかった大長港。
建物もあまりに昭和。小長港との格差が酷すぎて泣けてくる。(大長~小長は徒歩で5分ぐらいです)
…ギリギリ間に合った。マジで危ないところだった。
大崎上島へは高速おちょろ舟で
御手洗と言えばおちょろ舟。そして、今から向かう「木江(きのえ)港」もまた、遊郭とおちょろ舟で一時代を築いた場所なのである。
となれば、両者を渡す船もおちょろ舟であってほしいと思うのが旅人心理。
出てきたのは・・高速おちょろ舟。
以下、解説。
ボディを軽合金にし、ディーゼルエンジンを搭載したことで従来の木造おちょろ舟ではあり得なかった速力26ノットを実現。大長~天満を20分で結ぶことに成功した。
※この記事は酩酊状態で書かれたものです
木江港に上陸
天満で船を下りたのは筆者のみであった。でかい荷物を携えた人が多かったので、皆竹原まで行くのだろう。いかにも帰省先から自宅へ戻るところです、というオーラが一様に出ていた。
木江の遊郭跡は港からすぐのところにあった。「古い街並み」などという、いかにも無知な観光客が騙されそうなぼかし言葉で看板には紹介されている。
せっかくだから書き直しといてあげようφ(´∀`へ)へへへ
往時の歓楽が忍ばれる街並みである。往時は遊女が体を売っていた売春街である。
さて、それでは早速往時の歓楽を忍んで来ようじゃありませんか。
木江の遊郭は、やはり船で行くというのが旅情を誘うのか、瀬戸内の離島にも関わらずここに足跡を残している先人たちはことのほか多い。おそらく、『赤線跡を歩く2』や『色街百景』で紹介されているというのも大きいのだろう。
みんな暇ですよね
早速歓楽の面影を残す建物が出てきた。
一軒だけタイル物件も残っていた。
その先には、看板にあったとおり三階建の木造家屋。
しかしながら、おしなべてそのどれもが廃屋と化していた。これじゃ控え目にも「古い街並み」などと紹介できるレベルではない。観光資源ではなく完全に廃墟街ではないか。
元商店と思しきお隣さんも、すでに風化が始まってから長い歳月が経っているようであった。建物なんて自然の前ではあまりに無力である。
“潮待ち・風待ち港”、“おちょろ舟の里”の冠を等しく分け合った御手洗と木江。
両者が迎えた結末は、残酷とも言えるほどかけ離れたものになっていた。
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