宮津には「宮津節」という有名な民謡がある。
二度と行こまい丹後の宮津 縞の財布が空になる
(丹後の宮津でピンと出した)
宮津の花街は格式が高く、ひとたび足を踏み入れると財布がすっからかんになる…という意味合いだそう。
「ピン」はピン札を意味するのか、(お札を)勢い良く出したという擬音語なのか。
引き続き新浜遊郭跡を散策
ややカフェー風味のバーかスナックのような建物。
「駅馬車」のフォントがレトロでなかなか洒落ている。
その横にも色街の残党としか思えない外観と色を備えた建物がさりげなく自己主張をしている。
さらにその奥にも「コマンド」という名のバーが見える。
そのバーには「酒場」の鑑札。なるほどここがルイーダの店か・・
しかし“酒場”ははじめて見たな。はぐれメタルに出会った気分。
コマンドの前から北側を望む。絶妙なくたびれ加減が素敵な光景。
さて、昭和30年の『全国女性街ガイド』のほうには宮津は何て書いてあるのだろうか。
“縞の財布がからになる”の丹後の宮津も市になったが、島原遊廓そのままの遊廓は、昔のままに棧高近くの甃路に軒をつらねている。女は六十二軒に二百四十三名。
(中略)ほかに芸者が四十名いて花代二百円。
昭和初期に比べ、軒数はほぼ変化がないものの、赤線時代は女性の数が約3倍。それだけ需要があったということなのだろう。
そろそろ字が読めなくなりそうなほどボロボロの案内板には、ここの芸者のことが書いてある。
花代が祇園より三銭高くたぶん日本一、というくだり。
他には大して目につくような建物はなかったので、ここから先は適当に撮った写真を掲載していく。
安さの限界に挑戦!博多屋台 限界灘
思わず失笑w
意味がわからない方のために補足すると、福岡に「玄界灘」っていう海域があるとです。
60軒もあった割にはあまり実りのない散策だったなー、なんてここを思ったんだけど、実は当時のエリアがもう少し広かったということを帰ってから知るという悲劇的な後日談があってですね。
新浜地区は府道9号線をはさんで東西にまたがってて、なぜか西側しか歩かなかったんだけど東側にも普通に遺構があったようで‥。
というわけで、新浜に行かれる方はそちらも併せて歩かれると幸せになれそうです。
住所的には「魚屋」あたりですね。
そんなわけで宮津編はここまで。
この後、国道178号を東へ向け走った。
勘のいい方はおそらく次の展開が読めていることと思う。
目指すは『岸壁の母』の舞台、軍都舞鶴である。
[訪問日:2017年5月3日]
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