迷宮の私娼街 玉の井の歩き方

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その日はついにやってきた。そんな言葉が相応しかった。
東京一の公娼街が吉原なら、私娼街で不動の地位を築いていたのが玉の井であった。現在で言う墨田区墨田にあったその赤線跡に、間もなく夏も盛りを迎える7月のある日、ようやく足を踏み入れるに至った。

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玉の井は「東向島駅」と「鐘ヶ淵駅」の間にある

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玉の井の最寄り駅は東武スカイツリーラインの『東向島駅』になるが、筆者の自宅から向かうとぐるっと迂回するようなルートになってしまうため、めんどくさいのでバイクで向かうことにした。お隣の鐘ヶ淵に二輪のコインパーキングがあったので、図らずも逆方面、北側からアクセスすることになった。

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玉の井から鐘ヶ淵駅まで伸びる西町買物通り商店街を南下。下町の商店街らしい風景に自然と足取りも軽くなる。

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玉の井と言えば、先日レビューを書いた映画「赤線玉の井 ぬけられます」をはじめ、永井荷風の「濹東綺譚」、滝田ゆうの「寺島町奇譚」など関連作品は枚挙にいとまがない。
荷風のみならず、多くの文人たちに愛された街としても知られている。

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簡単に街の歴史を紐解いておこうと思う。
大正時代、浅草から数軒の銘酒屋が移転してきて営業していた折、関東大震災が発生して浅草の銘酒屋街は壊滅、業者たちが新天地を求めて亀戸と玉の井に移って行ったのが始まりである。

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荷風が濹東綺譚で『ラビラント(迷宮)』と称した玉の井は、密集した家屋に細い路地が複雑に入り組み、路地の真ん中にはドブが流れる猥雑な私娼窟だった。
しかし東京大空襲で焼けてしまい、戦後は北に面したいろは通りの北側に場所を変え、一大カフェー街を形成するにいたった。
紛らわしいので、今後は戦前のほうを「私娼窟」、戦後のほうを「カフェー街」と呼ぶことにする。

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やがて四ツ辻に出たので左折すると、ここがかつて赤線地帯であったことを身を挺して表現するかのような趣の隅田湯さんが登場。
温泉、銭湯好きの筆者としては場所を抜きにしても入りたい衝動に駆られる外観である。

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隅田湯の前を東西に伸びる道はそこそこ広く、この南側一帯にかつてのカフェー街が広がっている。戦後玉の井において、この道が外界との結界のような役割を果たしていたのではなかろうか。

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意を決し、いざ結界の中へと足を踏み入れる。
いつもなら視神経に全神経を集中させなければいけないところを、そこかしこにゴロゴロ遺構が転がっている玉の井は、目的物が否応なしに視界に飛び込んでくる。

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これはこれで嬉しい限りだけど、こうなると今度は痕跡を見落とさないように努めないといけないわけで、少しだけ緊張してくる。気分はまるで獲物を探すハンターである。

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かつて肉をひさぐ場であった建物たちは、老朽化という抗いようのない現実に直面し、やはり徐々にその数を減らしている。
建て替えで完全に別の家になってしまったものもあれば、改修という形でカフェー調の名残をとどめるものもある。

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荒れ果てたスナックのなれの果ては、もう何年も放置されているようである。ある日忽然と更地になっていてショックを受けるのはだいたいこういう建物と相場が決まっている。

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バーロジとは一体何なのか。
「バー路地」だろうか。ドアの上にさりげなく緑のタイルがあしらわれている。そして、今はなき「玉の井」の名が見て取れる。

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簡易料理店・・だ・・と?
まぁ、確かに料理はメインじゃないので簡易的なモノで十分かと。しかし、よくよく意味を考え出すとその曖昧さと抽象さ加減がちょっとおかしい。日本語の妙である。

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まだ始まったばかりの玉の井散策。家々が密集したごちゃごちゃした町並みと細い路地は戦後のカフェー街でも健在だった。
かつてこの地を訪れた先人たちがそうであったように、筆者もまた『迷宮(ラビラント)』の魔手に落ちることになろうとは、このときはまだ知る由もなかった。

(2ページ目へ続く)

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