龍野城下町を散策したあと、もう少しだけ足を伸ばし西へ向かった。
ローカル線の旅はまだまだ続く。
佐用から智頭急行に乗車。
旅情をえぐり出すようないたいけな車両が可愛すぎる。
そしてこの、線路は続くよどこまでもを地で行くような車窓風景。
呼吸しただけでお腹いっぱいになれそう。
佐用からひとつ。平福という駅で降りた。
もう少しで岡山。そこは文字通り兵庫の最果てだった。
因幡街道随一の宿場町
江戸時代、姫路から鳥取へいたる因幡街道(いなばかいどう)が整備され、山陽(瀬戸内海)と山陰(日本海)をつなぐ物流の道として多くの人が行き来した。
平福は、この因幡街道最大の宿場町として栄えた歴史を持つ町である。
国道373号線沿いに道の駅があるので、ここを散策の拠点にするといいだろう。
観光パンフレットもここに置いてある。
元々は江戸時代初期に築かれた利神城の城下町だったが、一国一城令によりわずか30年でその歴史は潰えてしまう。
その後、城下町から宿場町へと姿を変え、繁栄の歴史を継いできた。
宮本武蔵初決闘の場
そんな平福に、剣豪武蔵初決闘の場なる史跡がある。
武蔵の父は、母との死別後に利神城主の娘を後妻にした。父が死去したのち、後妻は平福に戻るが、武蔵も後を追って平福へ。
平福で武芸を学んだ武蔵は13歳のときに、この場所で初決闘、一太刀で相手を倒したと言う。
伝説の剣豪の歴史はここから始まったのか・・なんとも感慨深い。
何の因果か、ここは江戸時代に藩の刑場になったそうでこの地蔵は供養のために建てられたとある。
刑場って、武蔵の決闘がきっかけになったんじゃないか・・っていう説じゃw
川端風景
線路と旧因幡街道の間に流れる佐用川。
平福の見どころとして、最も有名なのがここからの川端風景である。
江戸から明治に建てられた土蔵や川面を眺める川座敷などが連続的に並んでおり、独特の川端風景を創り出している。
川座敷とはいわゆる「離れ」のことで、川の流れと利神山を愛でるために建てられたもの。
風流人による粋な文化の名残が見て取れる。
各屋敷の中庭には、川へ直接降りるための石段が設けられている。
また、対岸に佇めば川面に揺蕩う土蔵群を眺めることができる。実に趣深い。
さて、それでは表通りの町並みを眺めて行くことにしよう。
平福の町並みは、旧因幡街道に沿って約1kmほど続く。
川へ降りる石畳の路地
往時の賑わいが嘘のようにひっそりと静まり返った旧街道。
建物だけが、時を超えて悠然と佇んでいる。
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コメント
たつ乃屋脇の路地はもう、たまりませんね(笑)
絶対、丁稚とお嬢さんが密会してますね。
関西の方は、東北より古い建物がわりとそのまま残っている感じがします。
東北は厳しい気候からか、補修跡が目立ったり、蔵の街と銘打っておきながら、かなり歯抜け状態だったりする印象が強いです。まぁ、生活優先と考えると仕方ないのですが。
こういう古い建物が、現役の建物として高い価値を持つという価値観が日本人に広まれば変わると思うのですが。要は京都の町家のように。
丁稚・・笑
なるほど・・東北はそういう事情があるのですね。関西の場合は所有者がいなくなって朽ちていくいわゆる空き家問題が結構ありますよ。
ならまちなんかはその典型です。
地区100年オーバーの建物に価値を感じるのは専門家と我々のような人ぐらいだと思います笑
これから空き家はもっと増えますよね。
でもこうした物件の魅力って、意外と多くの人たちが認めていると思います。
仙台でも、100年くらい経っていそうな木造住宅でオシャレな雑貨屋をやっている人がいたりしますし。ただ、そこに至るには諸々問題があるのでしょうね。
例えば、住む人がいなくなったけど、街を離れた持ち主が貸すのは嫌とか、貸せないと思っているとか。修理に金がかかるとか。もちろん、今までのような商売は成り立たないでしょう。それならIT系の企業の支店を呼ぶとか。今はネットで会議ができるので、地方の小都市にオフィスをつくる企業も出て来ました。街で補助金を出して、そういう企業を誘致するとか。
個人の財産だけど、街の財産としても考えて活用していく工夫があればと思うんですよね。
確かに、古民家の活用事例は色々なところで聞く話ですね。
とは言え、その街に最初から集客力が備わっているとかまちおこしに熱心とかでないと実現しにくいのではないかとは思います。
IT企業と言うのはよい視点ですね。
徳島の神山町のような前例もありますし、子育てや医療など環境面が充実してれば人はおのずと集まってきますよね。
行政と企業が知恵を出して協力し合わないと地方創生も難しい時代・・ではないかと思います。