穏やかな年明けだった。
一年で最も希望と期待感に包まれる元旦の朝。
まさか世界中で大混乱が巻き起こり阿鼻叫喚な一年になるなんてよもや考えもしないような清々しくも厳かな朝を、筆者は愛媛県内子町のビジネスホテルの一室で迎えた。
そして、ぴんと張り詰めた凍てつく空気の中、同町にある「八日市護国の町並み」へと向かった。
2020年、新年一発目のまち歩きが始まろうとしていた。
「八日市護国の町並み」のアクセス
公共交通機関の方はJR予讃線の「内子駅」が最寄りとなる。
少し距離があるが、後述する本町通りや内子座が途中にあるので是非歩いて向かうことをオススメしたい。
車の方は保存地区の北側にある駐車場を利用しよう。
四国最初の重伝建
愛媛の南予地方にある内子町は昔から交通の要衝だった町で、古くは宿場町として賑わった。
江戸時代、大洲藩の領地になると和紙の生産を奨励し、藩の専売品となったことで商人たちは富を築いていった。
その後、明治中期頃までの間には和紙から木蝋の生産へと鞍替えし、内子の人々は莫大な富を得ることに成功する。
最盛期の明治30年代後半、愛媛県は木蝋の生産量で全国1位を独占、内子は実にその7割を占めていたそうだ。
この日訪れた、旧街道沿いにある「八日市・護国の町並み」は、和紙や木蝋で栄えた時代の面影を色濃く残す地区。
1982年には、種別「製蝋町」として四国初、全国でも18番目となる早さで重伝建(重要伝統的建造物群保存地区)選定を果たしている。
ちなみに、この“製蝋町”を冠した重伝建は2024年現在も内子町のみである。
余談だが、筆者はこの内子町が四国の重伝建8ヶ所で最後の訪問となった。
保存地区は南北に約600m続き、100棟を超える伝統的建造物が立ち並んでいる。
その光景はまさに圧巻の一言に尽きる。
普通の町家から豪商の屋敷まで、建物の意匠や特徴も実に多種多様。
漆喰壁のものが多いが、なまこ壁、虫籠窓に格子窓、1階の大戸や蔀戸などバラエティに富んでいる。
さらには懸魚や鏝絵で華麗に装飾された建物も多く、目を閉じれば往時の繁栄ぶりが浮かんでくるかのようである。
このあたりは、江戸中期以降大火に見舞われなかったことに加え近代の開発の影響を受けなかったことで、江戸末期から明治期にかけての町並みが良好に残されることになった。
歴史的に見ても、かなり質の高い町並みと言える。
この素晴らしい町並みを朝から独り占めする。なんて贅沢な時間なんだろう、と。
地元民は皆無に近かったが、驚くことに観光客はちらほらといた。それは取りも直さず、この町並みの集客力の高さを示唆していることに他ならなかった。
八日市護国地区には宿が数軒ある。エリアを少し拡げれば、古そうな宿はもう少し増える。
しかしながら、個人経営の小さな宿に大晦日に泊まれるほど現実は甘くなく、不承不承某チェーン系のホテルに甘んじることになった。
ここについては年末年始に旅をすると常に付きまとう問題で、過去数年振り返ってみても大晦日はシティホテルか車中泊のみで古い旅館に泊まれたことは一度もない。
そんなわけで、行ったばかりだけど内子はまたいつか泊まりに行きたいと思っている。
まぁ、内子だけじゃなくて日本中そんな場所だらけなんだけど…。
話を戻そう。
ここの建物はほとんどが切妻屋根で、そしてほとんどが平入りである。(つまり間口が長い)
おかげで建物が大きく見えるのだが、その中でも特に立派なもののうちのひとつが
「木蝋資料館」になっているこちらの上芳我邸。
内子の木蝋生産、その発展を支えた名家が「芳我家(はがけ)」であり、こちらの上芳我家は分家にあたる。
主屋(明治27年)をはじめ木蝋の生産施設が一通り残っており、資料館は内子散策で是非とも立ち寄りたい場所のひとつと言える。
筆者は北側から歩いてきたのだが、この上芳我家あたりから気のせいじゃなく建物が目に見えて豪華になってきた。
まさに、THE・豪商の屋敷である。
いいなぁ…こんな家に住んでみたい(真顔)
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コメント
「アレを紹介してないのにこれで終わり?」←旭館のことかと思いました^^;
内子にこんなのがあったんですね(´;ω;`)