我が国の女性管理職の割合が世界的に低迷していることは周知の事実である。平均すると二桁にも届かない。
そして、自治体の首長ともなれば2%まで下落する。
日本はまだまだ女性が活躍する国とは言えないであろう。
そんな日本の歴史において、女性で初めて天皇になった人物を皆さんはよくご存知だと思う。
そう、飛鳥時代の「推古天皇」である。聖徳太子の叔母にあたる人である。
この推古天皇の21年(613年)にとある道が整備された。
飛鳥の都と難波(大阪)を結ぶ「竹内(たけのうち)街道」。日本最古の官道と言われる道である。
日本書紀には以下のように記されている。
難波より 京にいたる 大道を置く
大阪の堺を起点に東へ向かい、二上山(にじょうさん)の南側にある竹内峠を越え、葛城市内の長尾神社付近へと至る約26kmの街道である。
道はさらに東へ延び、「横大路」と名を変えて飛鳥まで続く。
この街道の名の由来にもなった竹内集落をぶらぶらと歩いてみた。
日本最古の官道
聞くだけでワクワクする響きである。
きっとワクワクさせてくれる町並みが続いているのだろう。
終点の長尾神社にもほど近い、国道166号線の「竹内交差点」のそばをスタート地点に選んだ。
現在の竹内街道は、大阪の羽曳野から葛城市内までの区間はほとんどがこの国道166号に取って代わられている。
竹内集落を通る部分はすなわち旧道にあたり、江戸時代あたりに整備されたと思われるような道幅で緩やかな上り坂が伸びている。
歩き出して間もなく、格式の高そうな伝統的な家屋がすぐにいくつか目につく。
やはりただならぬ歴史を秘めていることがいやが上にも伝わってくる。
江戸時代、大峯詣をする人たちが行き交ったことを示す名残が残っていた。
当時、大阪から奈良に入る主要な街道として多くの人がこの道を歩いたのだろう。
なお、余談だが整備された当時は「大道」と呼ばれた通り、幅が30mもあったそうだ。
推古天皇の本気がひしひしと伝わってくる。それほどこの街道の整備へは並々ならぬ思いがあったのだろう。
知らんけど。
竹内街道は、遣隋使に同行する大陸からの使者のために聖徳太子が整備したとする説もあるそうだ。
遣隋使や遣唐使は実際にこの街道を通って難波から飛鳥入りしたため、飛鳥文化の隆盛を支えた影のMVPと言っても過言ではない。
今、そんなすごい歴史を持った日本で一番古いカンドウを歩いている。
・・このカンドウをどう伝えればいいんだろう。
自分で言っといて何だが・・想像以上に酷いダジャレだ。
ゆかりのある人物その1。司馬遼太郎
竹内街道には特筆すべきエピソードが3つある。1つ目は「街道をゆく」で有名な司馬遼太郎である。
彼の母方の実家がここ竹内にあり、3歳までここで過ごしたそうだ。
その後も夏休みなどは竹内で過ごし、幼少期の心象風景として深く心に刻み込まれることとなった。
『街道をゆく』の第1巻に竹内街道の章があることも、いかに司馬遼太郎にとって竹内が大事な場所であったかを物語っている。
国民的作家となった後も竹内の人々との交流は続き、幼い頃の思い出を綴った色紙などが同地に大切に残されているそうだ。(どこにあるのかはわからない)
日本中の街道を訪ね歩いて『街道をゆく』を書き続けた司馬遼太郎の、街道歩きの原体験は紛れもなくこの竹内街道だったのであろう。
家並みは当時と様変わりしてしまっていると思うが、おそらく道幅はそのままではないだろうか。
興味があれば、是非第一巻をご一読の上この街道を歩いてほしい。
ゆかりのある人物その2。松尾芭蕉
次に出てくるのはかの松尾芭蕉である。
江戸の深川を起点に、東北をぐるりと周り、帰りは日本海側から岐阜の大垣まで歩き倒した紀行文「おくのほそ道」はあまりに有名である。
僭越ながら日本中を旅しまくっている当ブログではあるが、漁ってみたら過去に芭蕉に言及した記事が3つほどあった。
さて、そんな芭蕉が竹内に訪れたのはそもそも奈良を歩いていないおくのほそ道ではなく、その5年ほど前に著した第一作目の紀行文『野ざらし紀行』である。
このとき同行した門人の「千里」が竹内出身であった縁から、1684年9月に同地を訪ねている。
芭蕉は竹内滞在中に村の庄屋と仲良くなり、「綿弓や 琵琶になぐさむ 竹の奥」という句を贈っている。
後年、高田(大和高田市)の俳人が、芭蕉が竹内で詠んだ句を記念して「綿弓塚碑」という記念碑を建てた。
現在、その碑は民家を利用した休憩所の庭に移転されている。休憩所の名はそのまま「綿弓塚の休憩所」である。
右奥のほうに見えるのが綿弓塚碑
案内板には芭蕉がこの地方で詠んだ句が紹介されている。
休憩所内部は、芭蕉に関する資料のほか、江戸末期頃の竹内街道の地図が掲示されている。
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