大阪のシンボルと言えば、誰もが知る通天閣。
初めて大阪に遊びに行く者が真っ先にプランに組み込むのがこの展望塔ではないだろうか。
奇しくもコロナ禍では「大阪モデル」の象徴となってしまった通天閣の真下に広がるのが「新世界」というエリアである。
そう言えばちゃんと歩いたことがなかったので、新世界市場を出てそのまま界隈をぶらぶらと歩いた。
通天閣からは3本の路地が放射状にキレイに伸びている。そのうち、西側は「通天閣本通」という商店街になっている。
この整然とした“すごくつくられた感のある”街区は、一体どのように出来上がったのだろうか。
新世界の歴史
現在の街並みを眺めながら、このエリアの歴史を紐解いてみよう。
このエリア、実は明治時代までは畑が広がるようなのどかな場所だった。明治36(1903)年に開催された「内国勧業博覧会」の会場になったことで、鉄道が敷設されるなど市街化への足がかりとなったのである。
なお、内国勧業博覧会とはいわゆる万博のようなものだったようだ。
博覧会の跡地は、明治42年に東側が天王寺公園、そして同45年に西側が「新世界」として整備。
通天閣もこのとき誕生した。
同時に「ルナパーク」と言う遊園地が開業し、1923(大正12)年まで11年間営業された。
遊園地の入口と通天閣がロープウェイでつながるなど、当時としては相当ユニークなものだったようだ。
ルナパークはあまり振るわなかったが、新世界は繁華街、歓楽街としては殷賑を極め、その勢いは戦後まで続いて行く。
なお、通天閣は第二次世界大戦のさなか、空襲の標的にされる危険性と鉄の供与のために一度解体されている。
まぁ、結局新世界は空襲で被災し、壊滅してしまうのだが…。
戦後、まず南側のジャンジャン横丁が復興し、1956(昭和31)年に現在の通天閣が開業。
余談だが、初代通天閣は今より少しだけ南にあったそうだ。
ところが、1958(昭和33)年である。
売防法によって飛田遊郭が廃業した頃から風向きが変わり始め、歓楽街としては衰退を始める。
釜ヶ崎の労働者が新世界に流れ、さらには飛田新地の客を狙う街娼が跋扈するなど治安面では壊滅的な様相を呈するようになり、今に残るディープでヤバい大阪のイメージの原型はこの頃出来上がった。
しかしながら、積極的な再開発が行われなかったこともあり、90年代頃からはレトロな雰囲気が次第に脚光を浴びるようになり、ドラマや映画の舞台として使われるようになる。
結果として観光客も増え、飲食店が増えるなど歓楽色も薄まっていき、昨今のインバウンド需要も相まって賑わいのある街へと変貌を遂げていったのだと言う。
そして、これはルナパーク時代の名残なのだそうだが界隈には劇場が結構多い。
そのひとつが洋画専門の名画座「新世界国際劇場」。
元々演舞場だった建物で、1950年から今の国際劇場になっている。
で、その地下にある「国際地下劇場」。
元々は名画座だったが、今は成人映画館として営業している。
左側に見えるのが大衆演劇の「朝日劇場」。
一時期映画館になったが、1977年に再び演劇の専用劇場としてリニューアルしたそうだ。
前半は通天閣の北側エリアを歩いてきた。
国際劇場あたりから南側エリアになるが、ガラッと雰囲気が変わってこっちはめっきり繁華街の装いとなる。
新世界では今でもスマートボールで遊ぶことができる。
渋い佇まいの立ち呑み屋さん。
『大阪メトロ純喫茶巡り』でも紹介されていた「喫茶タマイチ」。
寄るつもりだったんだけど、このあともう1ヶ所行く予定で時間がなくなってしまったので泣く泣くスルー。
新世界と言えば串カツ。
串カツと言えばだるま。
だるまと言えば新世界。
そしてもうひとつ。
新世界と言えばやはり「ジャンジャン横丁」である。
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