関西には「新地」と呼ばれる解放区があることはよく知られているが、以前「かんなみ新地」を訪ねた尼崎に消えた新地があるという情報をつかみ、いても立ってもいられなくなって同地を訪ねた。
それは戸ノ内町なるところにあった「神崎新地」のことで、あの阪神大震災が契機となって消滅したという。
ただ、現在でも遺構がぽつぽつ残っているというので、期待に胸をふくらませながら現地へと赴いた。
戸ノ内町は、神崎川と猪名川がひとつになる場所にある中洲のような土地。尼崎市、豊中市、大阪市と橋でつながっている、尼崎の最果てに位置する町である。
猪名川を渡り、いざ戸ノ内町内部へと侵攻を開始する。
遺構は住宅に転用されていた
目的としていたものはあっさりと見つかった。地割も整然としていて、新地の特徴をよく残している。
建物の感じは、松島の料亭に近いだろうか。廃業するぐらいダメージが大きかった割には、震災から20年を経ても建物は今でも普通に使われている。
しかし、こんな駅からも遠い辺鄙な場所で儲かっていたのかちょっと疑問である。
神崎新地の歴史を紐解いてみると、元々は青線だったことがわかった。
昭和20年代、市街地には4ヶ所の特飲街があり約1,000人もの女給が働いていたという。問題視した市は、郊外に新開地を作って移転させることにした。それが昭和30年に移転したこの神崎新地ということになるらしい。
なお、4ヶ所のうち、パーク街(神田南通)だけは元の場所に留まり続け、これが現在の「かんなみ新地」ということになる。
間もなく昭和33(1958)年には売防法の完全施行を迎えるが、神崎新地はその後も営業を続けた。これは先述のとおりである。
移転の際、ここの他にもう1ヶ所「初島新地」というのもできたそうであるが、そっちは大阪万博のときに風紀上の理由で潰されてしまい、今ではもう何も残ってないらしい。
しかし意外に残ってるもんだな。遺構は住宅や町工場に転用されているが、総じて状態も良い。
まぁ昭和30年だからそれもそうか。
もしここが震災後も存続していたとしたら、今頃どうなっていただろう。いかんせん交通の便が悪いし、細々と営業したとしても和歌山の某新地のように悲惨なことになっていた気がする。
純喫茶とはなかなか珍しい転用のされ方である。だがもう、とうの昔に廃業してしまっているようであった。
付近は割と普通の住宅街である。かつて聖域があったとは思えないほどのんびりした昼下がりだった。
普通の住宅街と言っても歴史的には色々ある土地柄のようで、なぜか沖縄からの移住者が多いとかで、見ての通り沖縄料理屋があったりした。
市域全体で見ても、尼崎って工業地帯だし総じてブルーカラーな方が多くガラがよろしくないという印象がある。まぁ半分はイメージだけど。
とにかく、無事に建物を見ることができたので満足した。もうちょっとぶらぶらしたら帰るか。
近くには銭湯もあった。ここに遊びに来た漢たちにさぞご愛顧されていたに違いない。
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