書くネタが乏しくてちょっと恐縮なんですが、今日は静岡にあった遊郭の話を。
静岡県。と言われて普通の人は何を思い浮かべるだろうか。お茶。富士山。みかん。サッカー。まぁこれだけ出れば上出来でしょう。
実は筆者にとっては学生時代を過ごした思い出の地で、今でも第二の地元であると公言する愛してやまない場所だったりする。
徳川家康が晩年を過ごした駿府城があったのがこの静岡市で、城跡である駿府城公園では毎年秋に大道芸のワールドカップが行われる。という事実が実は全国的にはあまり知られていないんですよね。
写真は駿府城公園にある家康公の像。
もうちょっと静岡の紹介をさせてくださいね。
ここ最近、全国的にも有名になってきた感のあるしぞーかおでん。駿府城公園の南側に伸びる青葉通り界隈に「青葉おでん街」「青葉横丁」というふたつのレトロなおでん横丁がある。
何が有名かと言うと、だしとはんぺんが黒いのである。初めて目にしたときのカルチャーショックは計り知れないものがあった。そしてもっと衝撃だったのが、静岡県民の友人がまるでジャパニーズスタンダードかのように「おでんのはんぺんとだしは黒いものである」と思い込んでいたことである。
吉原遊郭のルーツは二丁町だった
ではそろそろ本題に。江戸時代、駿府城下に遊郭が置かれたが、江戸に吉原遊郭を作るときにこの静岡から業者や遊女が移って行った。つまり吉原の生みの親が静岡だったというすごい史実がまず存在する。いわば子会社みたいなものですね。
駿府に七町あったうちの五町が江戸に移転し、二町が残ったので「二丁町遊郭」と呼ばれたという説と、土地の四方が「二丁」であったという説があるそうだ。
静岡大空襲で灰燼に帰してしまい、戦後再建されなかったために今は何も残っていない。現在、遊郭があった場所にはこの「静岡県地震防災センター」が建っている。
与太話だけど、この地震防災センター、学生時代に授業で訪問した場所だったり。まさか10年以上経ってからこんな目的で再び訪れることになろうとは。。
その地震防災センターの横には、二丁町遊郭の存在を唯一今に伝える稲荷神社がある。
入ってすぐ左手には石碑と案内板。
明治27年に当時の静岡県知事と地元の人たちが遊女の労をねぎらうために建立したそうです。
この文章によると、二丁町は戦後も存在し昭和32年の売防法施行(完全施行は33年)まで存続したとある。どうもこれ、戦後は青葉通りのどんつきにある常磐公園の裏手一帯に移動して赤線として続いていたらしいのでそのことを指しているのではないかと。
前置きした通りですが、撮った写真はこれだけなので非常にネタが乏しくてすいません。
ここ二丁町は幕府公認であったためか格式が高く、張り見世の際も横顔のみであったという。さらに回し(一人の遊女が複数客の相手をすること)を取らなかったそうで、この辺りからも格式の高さが窺える。
『遊郭をみる』には最盛期で遊女が300人を超えていたという記述がある。
かつての二丁町遊郭大門(『遊郭をみる』より)。撮影は明治時代頃だろうか。
二丁町最大の妓楼であった、蓬莱楼。
東海道中膝栗毛に登場したり、日本のラストエンペラーこと徳川慶喜公がお忍びで利用したりと、静岡どころか全国にその名を轟かせていた超有名店であったらしい。
伝統と歴史が凝縮された巨大洋風建築。焼失してしまったことが実に惜しい。
やや見どころには欠けるが、日本の公娼制度、その中でも江戸に初めて遊郭ができ、その後の発展の礎となった江戸時代。
そんな極めて重大な歴史が垣間見れる静岡二丁町遊郭。おでんでも食べに行った道すがら、立ち寄ってみてはいかがだろうか。
[訪問日:2014年5月4日]
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