薩摩は突出して武士が多い国だった。
江戸~明治期頃、全国平均が約5%と言われる中、実に全人口に占める武士の割合が30%という異常値を叩き出していたのである。
出水麓編で触れた「郷士」を含む数であるとは言え、全国を“麓”と言う単位の外城に分けるほどのサムライの国。
その薩摩国で、知覧、出水に次ぐ有名な武家屋敷群が薩摩川内(さつませんだい)市にある『入来麓』である。
この3ヶ所をあわせて鹿児島の三大武家屋敷群と呼ばれているが、知名度的にも規模的にも入来麓が一番ぱっとしない(笑)
古い町並みを探すと武家屋敷に行き着くというのも鹿児島らしいし、3ヶ所ある重伝建(重要伝統的建造物群保存地区)がすべて武家町なのも鹿児島らしい。
そんなこんなでやってきた入来麓は、だいたい鹿児島市と出水市のちょうど中間あたりの山あいにある。
鎌倉時代に始まる入来の歴史
入来の歴史は古い。
鎌倉時代、相模国の渋谷氏が地頭としてこの地へ入り、「入来院」と名乗る。
そして、清色城を築いて明治維新までこの地を統治した。
そんなわけで、知覧麓、出水麓とはちょっと出自が異なっている。
付け加えると、入来院氏は島津家と敵対していた歴史があり、紆余曲折の末に負けて家臣となって以後、入来の統治を任された。ということらしい。
見てくれはぱっとしないけど、歴史だけ見たら入来麓の一人勝ちかな、これは。
ちなみにここが重伝建になったのは2003年のこと。先述のとおり種別は「武家町」。
清色城は、樋脇川(ひわきがわ)の西側に築かれた山城。その東側、城と川の間につくられたのが入来麓の武家町である。
石垣をはじめ、近世になって整備された街路や武家屋敷門などが町割りととともによく残っており、そのあたりが選定理由なのだそうだ。
石垣は、樋脇川の石を使った玉石垣となっていて、野面積み(のづらづみ)という積み方。不揃いの自然石を積んでいく最も古い工法のひとつである。
赤城神社。もともと清色城内にあったものをこの場所に移築したらしい。
旧増田家住宅
入来麓で唯一一般公開されている施設がこの旧増田家住宅。
茅葺屋根の母屋は明治6年頃の建築だと言われている。母屋の他に、石蔵、浴室便所、洗い場が残されている。二棟連なっているのは、知覧編で書いた「おもて」と「なかえ」と同じである。
これが石蔵。ぱっと見、折檻部屋か何かにしか見えないw
残る見どころはひとつ。「かやぶき門」の案内に従って進む。
旧国道の「中ノ馬場」で異彩を放ちまくる入来院家の武家門。これが入来麓最大の見どころ。
あまり見ないタイプだなーと思ったら、どうも鎌倉時代のスタイルらしい。
マジか・・
見どころとしては大体こんなところ。あまりぱっとしないって言った意味がお分かり頂けましたでしょうか(笑)
あ、もう一個あった。この石垣が凹んでるやつ。敵からの隠れ場、ちり捨て場、の二説あるらしい。
前者のような気がするなぁ、武家町だし。
石垣をじっくり観察すると、不揃いの丸石を頑張って積み上げた先人の苦労が偲ばれる。これ、河原から運ぶだけでも相当大変だったんじゃないかな。
昔の武家屋敷をそのまま使った(と思われる)武家茶房Monjo。
名前が凄いなぁ、武家茶房。
落とし穴とか隠し階段とか普通にありそうな響き・・
観光色が皆無で、今でも一般の方の生活が営まれている武家屋敷群、鹿児島・入来麓。
地味で、万人には刺さらないだろうな、という印象だけが残った。
武家屋敷が好きか、筆者のように重伝建目当てか、いずれかであればオススメしたいと思う。
[訪問日:2018年1月4日]
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