岡山西遊郭。
『全国遊廓案内』には貸座敷五十九軒、娼妓は三百五六十(350~360)人いたとある。
規模的には東西似たようなものだったようだ。
国道の高架をくぐった先で見つけた面白い建物。
この先は土地が痩せていき、民家もまばらになっていく。
このあたりで引き返すか。
戦後の話
岡山市は終戦直前の6月29日に大空襲を受けており、東中島町、西中島町ともに相当の被害を出している。(北側が一部焼け残った)
戦後はRAAの施設が急ごしらえで建てられ、進駐軍向けの慰安所として再興。
しかし、昭和33年の売春防止法によって赤線としての歴史を終え、その後は住宅街として歴史を刻み、今にいたる。
歴史を俯瞰してみるとだいたいこのような感じになるようだ。
焼け残ったというのがどのあたりまでなのかわからないが、少なくとも戦前から残っていそうな建物はなかったように思う。
南北に走る二本の筋をつなぐ路地のうち、北側にあるこの小路が最も風情があった。
振り返るとこうなる。
ここを真っ直ぐ行くと、最初に歩いた川沿いの道に戻る。
この通りも、昔はさぞ賑わっていたのだろう。
その時代に歩いてみたかったという叶わぬ願い。
遺構を含む古い木造家屋たちも、時間とともに少しずつその数を減らして行く。
自分が歩いた日も、その抗えない時間の流れの、ある一点に過ぎない。
ぼんやりとそんなことを考えながら、東西ふたつの遊郭島の散策を終えた。
[訪問日:2018年8月17日]
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