横浜黄金町。その街は完全に死んでいた。
春の気配が少しずつ雪を溶かしていくように、10年という歳月をかけてまるで能面のように表情が消えてしまっていた。今なお残るのはわずかばかりのバラック建築と細い路地のみである。
人の営みが消えた街
基本的に人の気配がしないのである。正味1時間以内で散策を終えたが、すれ違った人のなんと少なかったことか。
物音に振り返るとそこには猫がいたという始末である。
ここに住み着いているのだろうか。争いの歴史で疲弊しきった街の空気を吸い続けたせいか、そこはかとなしに猫も疲れた顔をしている。
元置屋の建物も、今では何事もなかったかのように街の風景に溶け込んでいる。
しかしすごいなこれ。少なくとも6部屋はあるんだろうけどどんな間取りなんだ一体。
ゴミなのか何なのかよくわからない物体が軒先に放置されている物件もちらほら。
その一方で、よい借り手に恵まれたのか“真っ当な”使われた方をする物件も見られた。
実のところ、間取りが特殊なせいで再利用もあまり芳しくないようである。まぁ、文字通り「特殊飲食店」ですからね。
中には絶賛販売中の部屋もいくつか見られた。「区分所有権」「持ち分4分の1」、か。ははは。
ただ、土地もついてこの値段なら案外悪くないかもしれない。駅近だし。建物が解体されたときに地権でもめそうだけど。
街が浄化されたとは言え、再開発に呑まれて消滅したわけではない。バラック長屋が目につくとなぜだか少しほっとする。
こういう写真ばかり撮ってしまうところにつくづく自分の酔狂な生き方を思うのであるが、まぁこればっかりは仕方がない。
気づけばお隣、日ノ出町の近くまで足を踏み入れていた。大岡川沿いの風景には相変わらず変化が見られない。
正面に見えるのが日ノ出町駅。普通に歩けば10分かからないほどの距離である。しかし改めて思うのは、「黄金町」といい「日ノ出町」といい、燦爛たる単語に彩られた地名ほど哀しい歴史を背負っているのはこの国ならではのアイロニーだということだ。
力強い息吹とともに街が生まれ変わろうとしているその傍らでは、不法投棄の注意書きの下に確信犯的に不法投棄されてる光景。やはりここは黄金町なのである。
ガード沿いから抜け出し、少しだけ高架の西側にある県道沿いを歩いてみた。すると、目に飛び込んできたのは昭和26年創業という山城屋旅館。
中は当時のままという非常にクラシカルな旅館だ。惜しいなぁ。横浜じゃなければたぶん泊まるんだけど。
さて、今まであえてそのことに触れようとせずに意図的に避けてきたが、紙面の都合上そろそろ真実を書かねばならない。
実は今黄金町は、「アートの街」というコンセプトを打ち出して街の再生をはかっている。芸術家の卵たちが活動するギャラリーや工房が少しずつ増えていっている時期だった。
期待していた光景とあまりにかけ離れた姿がショッキングすぎてカメラを向ける気が萎えてしまったのだ。
ご覧のようにガード下の一角にアートタウンなるものが出現している。申し訳ないがこればかりはご自身の目で確かめていただきたい。
黄金町駅から大岡川沿いに入ってすぐのところには、“浄化の歴史”が滔々と書き連ねられたある種記念碑的な色合いを帯びた年表が掲示してあった。
ちょっと読んだだけで喪失感でお腹いっぱいになってしまい、早々に魔窟から引き上げることにした。
現役時代を知っていればもっとリアリティに富んだ文章が書けたであろうことが残念でならない。バイバイ作戦が敢行された2005年と言えば、筆者はまだ「赤線」「青線」の意味も違いも知らないある種違う世界で生きる一個人に過ぎなかった。
もしまた、不死鳥のごとく妖しいネオンが再び灯る日が来たとしたら。果たして自分はそこに足を踏み入れるだろうか。そのとき、そこは天国と地獄どちらであろう。
しばし沈思黙考してしまった。
[訪問日:2014年5月25日]
コメント
黄金町のちょんの間は無くなる3年ぐらい前に一度だけ利用したことがあります。高架下脇の店舗だったことだけは覚えていて、日曜の昼下がりでひっそりとしていたのですが店のドアを開けるとちゃんと店内で女性が一人で待機していて、そこで値段の交渉をするような形でした。小料理屋といいつつも料理やビールすら出ず、交渉成立したらすぐに二階へといった感じでした。
一階の店舗は当然ながら狭く、上への階段も狭く急で二階も狭くかつ薄暗く、布団が敷いてあるだけでした。ちなみに相手をしてくれたのは台湾の方で当時は日本人はほとんど居ず、衰退していたように思えました。今思えばいい経験? をさせてもらったなと思う一方、周辺住民からすれば怖いしイメージダウンになるしで無くなっていく方向になってしまったのは時代の趨勢という気もしますね。
長々と失礼しましたm(_ _)m
大坊つよし様
コメントありがとうございます。リアルに当時を知る方からのお話、非常にありがたく思います。
おおよそそんな感じかなと思っておりましたが、実体験を聞けて腑に落ちました。15年くらい前の出来事でしょうか。もうそんなに経っているのか、と言う印象です。
今ではもう暗黙的に営業している場所もほとんど消えてしまいましたね。関西の新地ぐらいではないでしょうか。おっしゃる通り時代の流れかと思います。
ここもつまらない街になってしまった。全盛期はタイやフィリピンのボディコンのお姉ちゃん達が軒先に並んでて「え~らんでぇ~(選んで)」と大合唱。ある店は細長い階段にお姉ちゃんが5人くらい縦に座っていて微笑みかけてくる・・・いい街だった。
今じゃ内輪ウケのアート気取りのチンケな入りにくい店がひしめいてて近寄り難いね。
ホントにつまらない似非アート町。
そのお話を聞くと、ホントいい街だと思います。
当時を知る人からしたら、やはりものすごいギャップなんでしょうねぇ。私が行ったのはもう3年前なので今がどうなってるのかわかりませんが、まぁだいたい想像はつきます。
黄金町は本物のアートタウンではないですよ。
約20年ぐらい前、場外馬券行った後でよく冷やかしで歩いてました。入った事はありませんが。
昼間は閑散としてたけど、夜は縁日と言うか温泉街と言うか、一大観光地みたいで本当に凄かった。
あんな派手に営業してて、よく警察も黙ってたなと思います。
横浜から電車で10分、地理的には凄く良いけど、
あの辺りの土地の大半は恐らくは裏社会や不良外国人が絡んでるだろうから、
大々的な再開発はかなり難しいでしょうね。
私は現役時代は知らないので想像するしかできませんが、当時はよほどすごかったんでしょうね・・
黙認されていたのか、持ちつ持たれつの関係だったのかはわかりませんが、警察も本当は潰したかったのかもしれません。
そうですね。地権的な問題でデベロッパーも手を出しづらい、私もそう思います。
そうですね、横浜初黄日商店会のちょんのま長屋は、アートの街に変えられてしまいましたね。“臭い物には蓋~”でしょうか?市が考えた蓋はアートだったんでしょうね~
わたしは1999年頃から頻繁にロシアに滞在してました。横浜に帰ってくるとロシア語が恋しくなって、真っ先にちょんの間に行きました。わたしは女性なので、2階に上がることはありませんでしたが、ロシア語圏の女性たちとのおしゃべりは楽しかったです。明るく強い女性たちでした。仕事のシステムや、国籍別お客さんの女性たちの扱いの違いも話してくれました。
とても人間の生を感じる街でしたね。やはり自然発生した文化の方が作られた文化より面白いですね!
今は初黄日商店会どうなっているのでしょう?早速探検に行ってみようかな!
こうして当時の生きた話を聞かせていただけるのはやはり嬉しいです。
黄金町は男性のための町だと思っていましたが、色々なニーズがあったのだと感心しました。
女性たちから聞いた話というのも大変興味深いです。
ああいう場はよく「悪」だと言われますが、当時を懐かしんで回顧される方も多いですし全部が全部そうではないと私は思っています。
是非また歩かれてみてください・・もう当時の面影はありませんが。
昔の黄金町がなんとなく懐かしくなり検索してきました。
私が大学生くらいの頃まで、日が落ちてから黄金町の中を自転車で通ると、
赤いネオンに照らされたボディコンの女性が、
「オニイサンドウ?」とか「アナタマダハヤイネ。チョットコドモネー」とか、
呼びかけらて、ドギマギしたり面白がったりしたものです。
まあまあ品行方正に、横浜駅あたりで遊んでいた私には別世界を感じさせました。
そして、現在のアート街は、おっしゃる通り不思議なくらい魅力がありませんね。
なんでああなっちゃうのだろう。
プロの凄みはなく、かといって素人の自由さや出鱈目さや微笑ましさもなく、
嫌味さ・スノッブさすらない。
あれなら桜木町に昔あった巨大グラフィティの方が…私は決してヒップホップ文化は好きでないけど…の方がまだ面白かったな。
それでいて妙にすさんだ雰囲気だけは残っている。
昔を知ってる私だからそう感じるのか、
それとも、呪いみたいな場の空気ってもんがあるんですかね。
現役時代を知らない私には、異世界を思わせる描写です。何とも官能的と言いますか。
今もう、日本中探しても当時の黄金町のような場所はないと思います。
是非や善悪はともかく、そこに確かにあった歴史をなかったことにするのはやっぱり個人的には違和感があります。
たぶん・・アートの街っていう方向性の問題なのかもしれませんが。
当時を知る人にとってはそのギャップはやはり計り知れないものと・・お察しします。
いや~懐かしいですね。若いころ、昭和47年頃から3年位黄金町にいましたが本当に良い街でした。駅改札を出ると右に喫茶店、城が有り右に三益宮殿というパチンコ店、その目の前道路の向いに万両圓というパチンコ屋さん、初音飲食街もにぎやかでよく飲みに行きました。川沿いには無数の屋台が有りました、又駅の裏側も勝太郎・ブルームーン・小武蔵といった具合に小さい店が立ち並びママ達には大変お世話になったものです。
少し歩いて若葉町には洋画と邦画の映画館が2軒ありオールナイトで見ていたものです。
近くには根岸屋もあり素晴らしい街でした。
10年くらい前に様子を見に行きましたが近代的にはなったようですが、なにか寂しさを感じました。福富町はキャバレー全盛時代もう旧き良き時代は無いのでしょうね。
貴重な思い出話を頂戴し、非常に嬉しく思っております。
私にとっては40年代は写真や映像でしか知り得ない時代ですが、なんとなく情景が浮かんでくるようです。
賑やかで楽しい街。今では想像もできないですね。
当時を知る方が今の黄金町や曙町、福富町の風景を見て寂しさを感じられるのはすごくわかる気がします。
須崎パラダイスの記事からこの記事にきました。
川の向こうですが生まれも育ちもこの辺でして、「黄金町のえせアートのコメント」に共感してしまいついコメントしてしまいました。黄金町だけではありませんがこの辺は文化の欠片もなくなりました。文化といっても自慢できるものではないかもしれませんがこの吉田新田界隈は二業種、三業種があちらこちらにある地域でした。私の地元は二業種の料亭街でした。今はよそ者だらけでマンションしかありません。うちのおばあちゃんが近所の元料亭仲間や芸者仲間の家へ遊びに行く時はよく引っ付いて行ってよく小遣いをもらってたことを思い出します。40年前ぐらいまでは路地から山下公園の花火が見えてました。昔の方が風情があっていい町でした。
すごくよい思い出話をありがとうございます。
あのあたりに二業地や三業地があったというのは初耳でした。
横浜も都内もどこだってそうだと思いますが、今はマンションやビルだらけで個性のない均質的な街並みしか見られなくなりました。昔を知る方からすればつまらない街なんだろうな、とつくづく思います。
古い木造住宅や未舗装の路地なんかに風情や郷愁を感じますが、都会であればあるほどもう見つけるのは至難の業になってしまいました。
35〜40年ぐらい前ですが、夜中の2時頃なのに原宿の竹下通りのような人の往来で、ピンクの提灯の灯りの中に唸るような人の流れがあって、見落とすような路地に入ってもどこまでもそれが続いてたように思います
まさしく竜宮城でありました
私にはイメージできない情景ですが、それは夢のような世界ですね。
まさに桃源郷のようです。
隣駅に住んでいますが、わざわざ降りて楽しもうと思える街ではありませんし、
シネマジャック&ベティに行く時しか用のない駅です。
あのいかがわしさはあっても街は元気でしたよ。
私は冷やかしばっかりで2階に上がりはしませんでしたが、若かったのでネェさん達がお尻をつついてきたり、後ろから肩や頭叩いて知らないふりしてもう1回振り向くとあかんべーしてきたり、通りすがりに耳にフッと息を吹きかけてきて「アソビしない?」なんて言われてたわいもない会話をしたり、とにかく上がらなくても楽しかったですね。
毎日の仕事のストレスを若い客にちょっかい出したりからかったりして少しでも発散させてたんでしょう。(お互いですが 笑)
各種香水のにおいと外国人の大衆のにおいと各種料理屋の換気扇から流れてくるダシのにおい、八角のにおいが混じりあった妙なにおいがあの町のすべてを物語ってるような気がします。
アートは大好きで美術館やインスタレーションがあれば一目散に見に行くんですが、ここのアートは何の魅力もありません。アートにもなってないです。駄アートです。
浄化して無臭にはなったんでしょうが、にじみ出てくるしょっぱさとすっぱさ。
言葉悪いですけどモテない奴らの負のオーラしかないんです。
人との交流を好まない人間たちが明かるく騒がしい奴らを権力を利用して追い出して、誰からも邪魔されない馬鹿にされない穏便な居場所を見つけてその勝利の証を見せつけるためだけのために占拠しているだけ、そんな気がします。
結局は一部の人間達だけが居心地良いだけで、他の周りの人たちの居心地のことは何も考えていないですよ。
あと、あそこで儲かるような商売させたくない派がいるんでしょうね。憶測ですけど。
はまれぽの同様の記事も読んでみてください。
記者さんが言いたいこと極力抑え気味に書いていることがわかります。
本当はもっとグザっと言いたいけど、婉曲表現するしかなかったような歯がゆさと、アートの代表の人のいい加減さと半端さが伝わってきます。
今度はアートバイバイ作戦でもやりますか 笑
コメントありがとうございます。
遅くなりましたがはまれぽの記事読んでみました。
私はアートの具体的な部分までは知らなかったものですから、「なるほどね」という感じでした。
無理やり蓋をしたかったのでしょうが、結果的にちぐはぐな印象が否めないというか、、アートである必然性はまったくもってよくわからなかったですね。。
そういう意味では、昔のほうがどれほど情緒的で味わい深いまちだったか知れませんね。
まちの活性化に貢献できてるのかも疑問ですし、いっそ何もない状態のほうがよかったのかもなぁ、なんて思いながら読んでました。
アートバイバイ作戦、いいですね(笑)