武蔵新田のポツダム特飲街

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東京都は大田区。たぶんほとんどの方が「どこそれ?」となるであろう武蔵新田という地にかつて小さな赤線があったことをご存知だろうか。
蒲田から東急多摩川線(旧目蒲線)に乗り二駅。武蔵新田に降り立ったのは、今にも泣き出しそうな空の梅雨の日であった。

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懐かしい。実は筆者は以前仕事の関係で多摩川線をよく利用していた。色街のことなどつゆ知らず通り過ぎていた街に再び来た、というのは何もここに限らずよくある話。

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駅近の特飲街

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南口を出て商店街を進む。赤線があったのは駅徒歩3分ほどの場所で、不動産屋の鼻息が聞こえてきそうな超駅近物件である。これは都内にしてはなかなか珍しい。

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大田区と言えば労働者の街と言う言葉が似つかわしいブルーカラーな土地柄。下町・・とまでいかずとも商店街の雰囲気はなかなかレトロ。安定の銭湯もある。

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都内でもめっきり数が減ってきた「町のおもちゃ屋さん」。考えてみたら少子化の弊害をモロに喰らう産業だよなぁ。

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そうこうしている内にマルエツに到着。ここまでくれば結界はもうすぐそこである。

ここで武蔵新田の赤線について軽く触れておくと、開業したのは昭和20年(1945年)7月。蒲田の軍需工場で汗水垂らす産業戦士の慰安所として、洲崎の業者が移転してできた新興の赤線であった。
元々は羽田の穴守神社前に開設したのが、羽田飛行場拡張のため立退きを迫られこの地に流れてきたのが端緒である。

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娼家にはアパートが三棟使われ、第一、第二、第三クラブと呼ばれていた。タイル貼りの壁を持つ建物だったそうだが、今ではもう普通のアパートや民家になってしまっている。
で、これがそのうちの一つだそうだ。

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確かに民家にしてはちょっと大ぶりだし、出入口が勝手口も入れればなぜか4ヶ所あって不審極まりないわけであるがどうにもいまいちピンと来ない。
“匂い”が感じられないんだよな。

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斜向かいには数々の修羅場をくぐり抜けたという表現が相応しい佇まいを見せるお寿司屋さん。
この地に遊びに来た油まみれの工場労働者たちも、かつてここで胃袋を満たしてから一戦交えたのだろうか。

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お隣にはパブ、レストランと書かれた業態がよくわからない謎のお店ボンジュール。
‘夜の街’だった頃の末裔の匂いがぷんぷんする。

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こんな位置関係。通りを見渡してもどう見ても普通の住宅街で、かつての結界の中にいるなんて微塵も感じられない。

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この辺りで気づくのだが、改めてよく見ると奇っ怪な造形物だなこりゃ。
これで完全に得心がいった。

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バルコニーが妙にカフェー建築チックで、しかもこの色彩。
関連物件なのかな。なかなかどうして艶っぽいお宅だ。

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そして、先人のレポートによるとこちらがもうひとつの遺構らしい。
三階に無理やり増築して部屋をこしらえたような空間が見えるあたり確かにそれは信憑性が高い話な気がする。

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幾何学的に配置された窓が三つ。“仕事部屋”が三つ並んでいると考えればよろしいのですかね。

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裏口。
武蔵新田は、開業1ヶ月後に終戦を迎えたことで「ポツダム特飲街」と揶揄されていた。拡張計画も水泡に帰してしまったが、RAAの指定地に立候補したことで無事指定、拡張を認められた。
そのRAAは僅か半年でオフリミッツとなるが、それから順調に発展して昭和30年頃には業者38軒、従業婦127名で最盛期を迎える。

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1958年(昭和33年)の売防法完全施行とともに廃業となり、まぁ元々が住宅街だったことと小規模だったこともあって予定調和的な終焉だったとでも言えようか。

見どころに欠けると言ってはいささか失礼だが、この日の探訪で一番記憶に残っているのが「途中ちょっと雨に降られて傘をさして歩いた」ということで、それこそが「忘却の色街」であることを示唆していると言ってもおそらく言い過ぎにはならないであろう。

[訪問日:2014年6月8日]

武蔵新田駅(東京)


コメント

  1. たいらん より:

    (すでにご存知だとは思いますが…)武蔵新田といえばちょっと前のアイドルファンならすぐにボンジュールが連想される場所であります。元モーニング娘な方のご実家パブです。いやはやその辺りが赤線だったとは知りませんでした。勉強になります

    • machii.narufumi より:

      たいらんさん
      いえ・・私はそれは逆に知りませんでした。調べてみると、確かに初期メンバーの実家のようですね。私は初期メンバー全盛期と青春時代がもろかぶりなものですから、大変興味深かったです。貴重な情報ありがとうございました!

  2. 服打トゥデー より:

    はじめまして。
    楽しい記事を読ませていただいてます。
    私は生まれも育ちも隣町ですが学区域がこの一帯エリアと同じでした。

    最近になって、小学生や中学生の同級生や前後年代の知人など母子家庭が多かったのは、理由があると考え想像仮定をしたのがこの赤線でした。
    赤線が無くなり数年後の生まれですが今で言うシングルマザーを親に持つ子供や家庭がたくさんいました。
    表だってはないですが私が住んでいた隣町は、この町を「あっちは元赤線町だから。。。」というのを当時は子供で意味も分からず、大人達が口にしていたのを憶えてます。
    主旨が少し違いますがそんな子供だった世代も早い者は孫がいる時代になり、赤線という言葉自体も時の流れに消えようとしてます。
    今と違いやむを得ない事情や理由を抱えた人間が生活をしていた町だったと思うと少し胸が痛みます。

    余談ですがボンジュールの元アイドルは出身小中校でみれば後輩ですしオモチャ屋の息子は同級生です(笑)。
    あと、この一帯は地元では有名な心霊スポットです。色々な噂がありますが女郎の霊だとか?

    • machii.narufumi より:

      服打トゥデーさま
      はじめまして。コメントありがとうございます!
      生まれも育ちもあのあたりとは・・まさに「生きた体験談」ですね。私の周りにはそのような方はおりませんので、このようなリアルで貴重なお話は大変参考になりますし嬉しいです。
      「赤線」という言葉もそうですが、町並みからも痕跡が消えようとしています。当時を知る人の言葉や経験というのは今後ものすごく貴重になってくると思いますので、是非語り継いでいって頂きたいと思う次第です。

      心霊スポットというのは初耳ですが・・女郎の霊というのはあながち的外れでもないような気がしますね。

  3. ねこ より:

    大田区はいろいろな側面を持っています。田園調布、山王、久が原など戦前からのお屋敷町ですし。旧蒲田区エリアは町工場などが多いですし旧大森区エリアは住宅地です。私は久が原に住んでいましたが、松竹蒲田撮影所が近かったせいかお古い映画スタアがお住まいでした。

    • machii.narufumi より:

      なるほど、大田区ほど振り幅の広い区はないかもしれませんね。
      蒲田行進曲に名残を残す蒲田に、昔映画の撮影所があったなんて今の若い人はご存知ないでしょう。

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