戦後間もなく誕生した新小岩丸健カフェー街。
業者13軒、従業婦37人でスタートしたが、昭和30年前後には業者80軒、従業婦200人近くの規模まで順調に発展して最盛期を迎える。
赤線時代の遺構はそのほとんどが解体の憂き目に遭ってしまったが、近くには往時の名残を色濃くとどめる路地が今なお残っている。
青線的な一角
ここで一杯ひっかけてから娼家に向かう、あるいは店内でコトを済ませられるようにできていたのか。いずれにせよ至極解り易い位置関係である。
もはや軽自動車さえ通行不可能に見える細い路地。
玉の井もそうだけど、細い路地が入り組むのは戦後の私娼街特有の傾向のような気がする。
丸健は、近所の工員やサラリーマンが主な客層というエラく庶民的なシマだったそうだが、安普請のスナックや安酒場が密集する光景を見るとそれも納得できる。
玄関まわりの艶っぽさに、往時への思いを馳せる。
自分がもしこの時代に生きていれば、と何度ほぞを噛んだかしれない。赤線ほど庶民の生活に温もりと彩りを添えたモノもなかっただろうし、代わりとなるものは未来永劫現れないと思うからだ。
妖しさ満天の響きをたたえるスナック。人のドス黒い欲望や妬みが渦巻く街だけにきっと「私怨」もすごかったに違いないと、脳内ではしょうもない思考が働く。
ツマラナクテスイマセン。
そのシエンの先は、行き止まりかと思いきや人一人分通れる卍型の路地になっていた。
「抜けられます」「近道」の案内板が掲げられていた玉の井の街もこんな感じだったのだろうか。
『赤線跡を歩く』でも紹介されている建物。
遺構なのかな。イマイチぴんと来ないけど。
近年まで赤線建築が残っていた場所は、きれいサッパリ更地になってしまっていた。こんな塩梅で一足も二足も遅いことがこの業界ではよくあるわけで。
昔の面影を残す路地も、工事現場を示す無機質な白い壁がその情緒的な景観をぶち壊していた。
萎えるなぁ。
2007年まで、「山喜」という屋号の転業アパートが残っていた路地。その手前にあった「かつこ」という小料理屋も建て替えられ、今では風情のかけらもなくなってしまっていた。
容赦なく歴史の波に呑まれ、元カフェー街を徐々に蝕むように高層マンションや駐車場、更地が増えて行く光景には軽く目眩すら覚えるほどであった。
もうあと10年もしたら、この地にカフェー街があった痕跡などひとつ残らず消えてしまっているかもしれない。
そんなことを思いながら、小松菜の名産地に暇を告げた。
[訪問日:2014年6月29日]
新小岩駅(東京)
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