ペーロンの名のもとに。風待ちの港「相生港」を歩く

兵庫県
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兵庫の西の最果てが赤穂なら、その東隣りに位置するのが相生市(あいおいし)だ。

3万人を少し切るぐらいの人口ボリュームでありながら、新幹線の停車駅であるため名前だけは極めてよく知られたまちではないかと思う。

この相生、かなり深い入り江を持つことから古代より瀬戸内を航行する船が“風待ち”の港として重宝した歴史がある。
その時代は今とは違い、市立文化会館のあるあたりがまちの中心部だった。

この旧市街、相生港のあたりをぶらぶらと歩いてみた。

現地に着くやいなや、こんな看板建築がお目見え。
先人のブログによると、昭和6年に建てられた旧太陽軒の建物だそうだ。

何の店だったのかはよくわからない。

隣が旧河内屋旅館。その隣にもややモダンな建物が残っているが、こちらは昭和初期の旧ひふみ旅館だそうだ。

相生港のあたりは昔は相生町と言った。
ただし読み方は「あいおいちょう」ではなく「おおちょう」。

そして、今の中心部、相生駅のあたりは那波町(なばちょう)と言ってこちらは山陽道の宿場だった。

モダンな鮮魚店

昭和14年に相生町(おおちょう)が那波町を編入し相生町(あいおいちょう)となり、その3年後に市制を敷いて「相生市」が誕生した。

相生駅もかつては「那波駅」だったが、同じタイミングで相生駅に改称している。

道は細く、厨子二階の伝統的スタイルの町家が残る。
いかにも旧市街です、と言った趣きを湛えている。

港と丘陵地帯に囲まれた長方形の土地に、比較的整然とした街路を持つ旧市街。
ある一定の時期に大規模な開発が行われた結果、今の町並みが出来上がったのだろうと思われる。

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造船のまち相生

瀬戸内の一漁村だったに過ぎない相生に明治の終わり、相生湾の西側、旧市街から見ると対岸に当たる場所にドックが建設された。

当時の相生村長が設立した「播磨船渠株式会社」である。

以後、「播磨造船所」、「石川島播磨重工業」と名前を変えながらも相生は造船のまちであり続け、昭和30年代には年間進水量で世界首位を穫るほど盛んに船が建造されたと言う。

戦時中には2万人を超える労働者が造船所で働き、通勤には渡船が利用されていたがあまりに混雑するので昭和18年に対岸から橋が架けられ「皆勤橋」と呼ばれていたそうだ。

しかし需要の減少から相生の造船所は昭和62年に新造船から撤退。
石川島播磨重工業はIHIに社名を変え、造船所の跡地には現在そのIHIの何らかの施設があるようだ。

ちなみに皆勤橋は平成14年に撤去されている。

という訳で、昔から変わってなさそうな旧市街の風景をお届けしながら相生が歩んできた歴史をざっと紹介してきた。

あるいは架橋されたのが相生港のあたりであれば、全然違った未来になっていたかもしれない。

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ペーロンとは

余談のような話はまだ続く。

相生には「あいおい白龍城(ペーロンジョウ)」なる道の駅があり、筆者はココに併設している温泉に以前入ったことがある。
その名もペーロン温泉♨️

もちろんそのときは「ペーロンって何やねん」と思った。

今回、色々調べる過程でようやくその意味が解った。

ペーロンとはひとことで言うと競艇である。

面白い意匠の建物

と言ってもモーターボートではなく手漕ぎで、ルーツは長崎県。

大正時代に、造船所の長崎出身の従業員が紹介して社内行事となったことが相生におけるルーツだと言う。
現在、毎年5月にペーロンを核とした「相生ペーロン祭」なる祭りが催されるそうだ。

そんなわけなので、今回の相生の話は造船とペーロンについて抑えて頂ければOKである。
まぁ、関西圏じゃない人はなかなか相生なんて行く用事はないだろうが、通過した暁には道の駅とペーロン温泉に立ち寄って頂ければと。

少しは町並みについても何か書いておこう。

こちらの都湯さんは現役の銭湯。

大正7(1918)年創業だそうで、すでに100年を超えている。
造船が盛んだった頃は市内に8軒もの銭湯があったそうだが、今は都湯さんだけ。

思っていた以上に写真を撮っていたようで、さすがにすべては紹介できないけど絞っても結構な枚数になってしまった。

今やめっきり見なくなった乾電池の自販機。
まちの電気屋さんの前には必ずあったもんだけど、今はコンビニでも電池買えるもんな。需要なさそうだよね。

本当に道が細い。
こりゃクルマ持ってる人は難儀するだろうな。

縦構図映えの路地。

旧市街の北側には川が流れている。

ホント、見ごたえある建物が多かった。
ほとんど期待せずに来たけど想像以上の収穫だった。

以上、相生港の町並みでした。

[訪問日:2021年11月27日]

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