飛騨高山の地味なほうの重伝建『下二之町大新町地区』

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飛騨高山の定番観光スポットと言えば重伝建(重要伝統的建造物群保存地区)にも選定されている「古い町並」ことさんまち通り

 

飛騨高山の定番観光スポット…「さんまち通り」はやっぱりすごかった
飛騨高山と聞いてたぶん真っ先に思い浮かぶのは、世界遺産にもなっている「白川郷」ではないかと思う。 その合掌集落で毎年1~2月に行われるライトアップイベントに、今年ようやく念願叶って行くことができた。 ...

 

ここは超の字がつくほど有名なので行ったことのある方も多いと思う。

そんな高山にはもうひとつ、『下二之町大新町(しもにのまちおおじんまち)』と言う重伝建がさんまちから比較的近い場所にある。

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下二之町大新町伝統的建造物群保存地区

やたら長くて覚えにくそうな名前だけど、ただ単にエリアが「下二之町」「大新町」の2つの地区で構成されているから、と言う理由でそんなに覚えにくいこともない。

場所は、さんまちから見て安川通り(国道158号線)の北側にあたるエリアになる。

日下部民藝館(明治12年)

まずは大新町のほうから。

高山は古川と同じく幕府の天領として栄えた土地柄。
この日下部家は、「谷屋」の屋号で幕府の御用商人を務めた商家。

お隣は明治40年に建てられた「吉島家住宅」。
見ての通り、元々造り酒屋として使われていた屋敷。

飛騨の匠の技を惜しげもなく注ぎ込んだ、建築的には傑作と言える建物で日下部民藝館ともども一般公開されている。

二軒とも、明治8年に起きた大火後に建てられたもので、特に吉島家のほうは明治38年に再び類焼したことで明治40年竣工となる。

それもあってか、「火垣」と言う防火用の袖壁を設えている。

「鍵の手」に残る、木造3階建ての建物。
元は何に使われていたのだろうか。

高山の歴史の話をすると、豊臣秀吉の命によって飛騨国を統一した金森長近はそのまま初代高山藩主となった。

長近は京都を参考にまちを碁盤目状に整備し、それが現在の街並みの原型になっている。

町名は安川通りを境にして北側が「下町」、南側が「上町」となる。
城に近いほうが“上”なのでそうなっているのだろうと思う。

さらに、朝市で有名な宮川に近いほうから「三之町」「二之町」「一之町」となっていて、これに先ほどの上下を加えて

 

宮  下三之町 下二之町 下一之町
——————-安川通り——————-
川  上三之町 上二之町 上一之町

 

と言う位置関係になっている。(実際は南北に長い)

このうち、上町がさんまち通りのことで、1~3まで3つあるから三町。

三町は1979年に「商家町」として重伝建になっている。これは先述の通り。

で、今回紹介するのが「下二之町」と、その北側に続く「大新町」。
南北に伸びる細長いエリアで、こちらは三町から遅れること25年。2004年に重伝建になった。種別は同じく商家町。

京都市をはじめ、金沢、高岡、萩など重伝建を複数持っている市は結構あるけど、住民と行政が協力して登録にこぎ着け、双方が意義や利点をきちんと共有できているから2つ目、3つ目とスムーズに行くんだろうね。

 

高山の町並みを歩くと、いたるところで秋葉神社(秋葉社)を目にする。
これは、江戸期~大正期にかけて高山では大火が相次いだことで、火伏せの神である秋葉社を信仰するようになったと言う。

その数、実に60ヶ所以上。飛騨では、親しみを込めて「秋葉様」と呼んでいるそうだ。

高山はまた交通の要衝でもあって、東西南北に街道が伸びていた。
このうち、北方面が富山へ向かう越中街道で、大新町はこの越中街道沿いにつくられた町並みとなっている。

その証拠は、通りを歩けばすぐにわかるはず。
思いっきり石碑が建ってるので。

脇道の雰囲気も良い。

大新町のほうはこんな感じ。
さんまちと比べると、古い建物もそこまで高密度ではなく見ての通り人も全然いない。マジでいない。

何なんだこの歴然たる差は…。

(2ページ目へ続く)

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